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オキナワの頃 其の七 やちむん通り

ぼくらの壷屋やちむん通りの生活が始まった。やちむんとは沖縄の方言で焼き物の事。国際通りから平和通りを抜けると、やちむん通りが始まる。壷屋は沖縄の陶芸の中心であった場所であるが、登り窯から出る煙の公害問題で、陶器を焼く場所は壷屋から読谷村に移り、電気やガスの窯になっていったりで、現在はやちむん販売店が建ち並び、沖縄の歴史と文化を感じられる観光スポットの一つだ。

沖縄のやちむんが注目され始めたのは大正期から昭和初期、「用の美」をテーマとする民芸運動をすすめた柳宋悦らの目にとまり、魚紋を中心とした陶器をつくる金城次郎が1985年に人間国宝に選ばれる。

竹富島での水牛車ガイド辞めたぼくはやちむん通りの小さなお店で器やシーサーの焼き物を販売する仕事に就いた。扱うものが変わったといえ、相手はほとんどが観光客、ガイドをするように器やシーサーの説明をして、慣れてくると壷屋一の売り子になっていった。

勿論、慣れないうちはお客さんを逃して一個も売れないという日もあったが、ちょっとした意識の持っていき方で、面白いくらいうれるようになったのだ。
お店全体に自分の意識を張り巡らせる。そして、お客さんが入ってきた瞬間のいらっしゃいませの一言でお客さんにインパクトを与える。話しかけるタイミング。買わせようという事は全くせず、ある程度お客さんに自由に見させる。あとはとびっきりのSmile。
お店で日々働き、焼き物をいじっていると当然、焼き物に興味が湧いてくる。焼き物の本を読んで日本全国の陶芸の里に思いを馳せたり、読谷村のやちむんの里を訪れたり(ヘッダーの写真は読谷村やちむんの里の登り窯)、やちむんの里でなくても、新進の作家さんの工房を訪れて見学させて貰ったりした。嫁も沖縄雑貨を扱う仕事を見つけ、新婚生活の我が家は収入は少なかったけど、やちむんの器で溢れていった。

新婚生活はうきうきした場面もあれば、価値観の違いから激しいぶつかり合いもあった。結婚とはこんなに大変なものかとも思ったこともあったが、お互いを徐々に理解していった。知り合いの少ない中での生活であったが、少しずつ友達も出来ていった。島の暮らしと比べたら那覇の生活は気を使わずに楽で自由だった。それでいて、那覇は文化的な事物に溢れていて、今思うとマイペースな我々の性格的に一番住むのに合っていたなと思う。

ぼくは嫁と手探りながら新しい生活を築きつつ、やちむんの販売店に通った。それと日々国際通りや平和通り周辺を歩き回り、自分がやってみたいお店の物件をさがした。国際通りは家賃が高すぎるけれど、一本外れるとぐっと下がる。都会らしいカフェやアトリエ、イベントを楽しみつつ、目ぼしい物件を紹介してもらったり、やちむん通りの端にある三線工房と仲良くなって徐々に自分のお店を持つべく準備をしていった。水牛車ガイド、三線演奏、やちむんの売り子として成功していたぼくは自信に満ちていた。やればなんとかなるだろうと甘すぎる計算をしていた。

ぼくは那覇生活一年後、自分の店を持つことになる。

                     


                            つづく

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