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共存と同化 -プラハの町から国際化を考える

プラハは、ヨーロッパでも有数の国際観光都市です。ヨーロッパはもちろん遠くアジア、アメリカから、年間650万人もの観光客が押し寄せます。小さなプラハの町は、いつも世界中からの観光客であふれかえっています。


9世紀のプラハ築城とともに本格的な都市建設が始まったこの町は、14世紀に神聖ローマ帝国の首都になったことでヨーロッパ随一の大都市へと発展しました。大きな戦禍に巻き込まれなかったこともあって、プラハには今でも伝統的な建築物が当時のまま立ち並んでいます。異なる時代の建築物が現存していることから、「ヨーロッパの建築博物館」と呼ばれることもあります。

プラハを世界的な大都市へと発展させたのは、神聖ローマ皇帝カール4世です。

ドイツ諸侯ルクセンブルク伯爵家の長男カールは、父ヨハンがボヘミア(現在のチェコ西部)国王であったことから、ボヘミアの首都プラハで生まれました。ルクセンブルク伯がフランス王の封建臣下でもあったことから、カールは少年時代をパリで過ごしてもいます。イタリア遠征を経て、父の死後ボヘミア王を継いだカールは、1346年にドイツの王(呼称としてはローマ王)になり、翌1347年、正式に神聖ローマ皇帝に即位します。カールは、プラハを帝国の首都と定め、ドイツ以東で最初の大学となるカレル大学を設立するなどプラハの発展に尽力しました。カールは、ドイツ語、チェコ語、フランス語、イタリア語、ラテン語を駆使する当代きっての文化人でもありました。

では一体、カールはどこの民族の人だったのでしょうか?

神聖ローマ皇帝は、ドイツ諸侯の中から選ばれます。そういう意味では、カールはドイツ人であったと考えるのが自然です。けれど、所領であるボヘミアを愛し、チェコ語を話し、プラハに住んだカールは、自らをボヘミア人だと考えていたようにも思えます。また、カールは異民族や異教徒に対して寛容でした。プラハに多くのユダヤ人を招き入れたのもその証左でしょう。結局のところ、カールが何人かという問い自体が愚問なのかもしれません。彼は、多くの民族を統治する皇帝だったからです。

ヨーロッパの歴史において、別の国の貴族がその国の王になることはごくごく一般的なことでした。ボヘミアだけでなくポーランドやハンガリーでは、長らくドイツ諸侯が国王を務めました。現在のイギリス王室につながるハノーバー朝の祖ジョージ3世もドイツ諸侯です。スペイン王は、トラスタマラ家の後をドイツ諸侯ハプスブルク家、その後をフランス王ブルボン家が継いでいます。オスマントルコから独立したブルガリアの国王に選ばれたのも、ドイツ諸侯です。

ヨーロッパでは、多くの民族が共存しています。ヨーロッパは、言語や文化、宗教といった違いをそのままに、EUという形でひとつにまとまっているのです。そして、ヨーロッパが多民族の共存を実現できた背景には、民族という枠を超えて王を戴いてきた歴史が一役買っているように思えます。王は、民族という枠に収まらないからです。

対する日本人は、異なる文化と交じり合うことが苦手です。

外国人はおろか同じ日本人同士でも、異なるバックグランドや慣習を持った人が組織に入ってくると、簡単にそれを受け容れることができません。異なる企業文化を持つ会社同士が合併した場合も、それぞれの企業文化を共存させることは稀です。どちらかの企業文化に同質化させるか、両方の企業文化を融合させていくかのどちらかでしょう。どうしても、共存という選択肢を取ることにならないのです。あるいは、異なる者同士が異なったままうまくやっていくという、共存の概念自体を持ち合わせていないのかもしれません。

そのため日本人は、国際化という言葉に多大なストレスを感じてしまいます。相手に合わせるか、相手を合わせさせるか、あるいは相手と融合するべく自身を変えていくか。これらの選択肢しか想定できないからです。日本人は、どうしても国際化を同化と捉えてしまうのです。

ヨーロッパを国際化の成功事例だと考えるなら、日本人は、国際化を共存だと捉え直す必要があるように思います。日本人は日本人らしくあればいいと思えば、国際化はぐっと受け入れやすくなります。反対に、外国人らしさをそのままに外国人を活かすことができれば、日本企業の国際化はずっと進展しやすくなるでしょう。大切なのは、どちらか一方に合わせるのではなく、異なるものを異なるままに受け容れることです。

とはいえ、これまで共存の概念自体を持ち合わせてこなかった日本人にとって、異なるものを異なるままに受け入れることは簡単ではありません。

だとするなら、まずはトップから変わるべきでしょう。「王は、民族という枠に収まらない」からです。トップ自身がどのカルチャー、どのバックグラウンドに対してもニュートラルであることができたなら、その組織は異なる者同士の共存に向けて大きな一歩を踏み出したことになるでしょう。

民族という枠を超えた存在であった皇帝カール4世。その彼によって多民族の共存がもたらされたプラハの町は、カールの治世から700年以上経った現在においても、ヨーロッパ有数の国際都市として繁栄を謳歌しています。


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