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【ショートショート】実行
あの人の香りがした気がして振り返ったが、誰もいなかった。楡の木の下でギターを弾いていた長髪の男が忘れていったナイフを手に取ると、殺風景な黒い柄に、みるみる渦巻き模様が刻印されていった。これがあの人の好みなのかな……と思いながら、こんなにも容易く道具が手に入ったことが嬉しかった。
家に着くと兄が出かけるところに出くわした。
「どこに行くの?」
「…………」
「その格好、仕事じゃないよね」
「……樫の木台だよ」
「何しに?」
「ゲームしに。そこの牧場経営者の娘なんだ」
「どうやって会ったの?」
「……マッチングアプリ」
「マッチングアプリで会った人とゲームするんだ……」
「ユウコには言わないでくれ」
「分かってるけど、お互いに本気になったら面倒だよ。病気でもうつされたらどうするの? コハナちゃんもいるんだし。早く手を引きなよ」
「分かってるよ」
兄は私の話を振り切るように出て行った。
手前の部屋を開けると、ずらりと20脚も一列に並んだ椅子のひとつにユウコさんが座り、目の前の鏡を見つめている。
「ユウコさん、コハナちゃんは?」
「もうすぐ来るわよ。コハナと私の髪の毛を切ったら出て行くから」
それにしてもこの部屋は広過ぎる。ぐうっと見つめて、私の左右に椅子がふたつずつ並ぶ程度に部屋を狭めた。これくらいがちょうどいい。あまり広いと、あのあとの掃除が大変だから。
「ママ、髪切って」
コハナが入って来て、ユウコさんの隣に座った。ユウコさんの手つきは見事だ。ものの数分でコハナの髪を切ったあと、自分の髪も切り終えた。
「じゃあね」
ユウコさんとコハナが出て行くと、散らばったふたりの髪の毛が伸び、蔦になって壁一面を埋め尽くした。壁の掃除をしなくても済むように、蔦も協力してくれているんだと思うと、ひとりで行うわけではない気がして、心強くなった。あとは、約束の時間にあの人が来さえすれば……
──ピンポーン。
ぴったり3時だ。いよいよ始まるのだ……そして、やっと終わらせることができる。
(了)
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