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#653 形式的平等論と実質的平等論~履修主義と修得主義のジレンマ~

形式的平等論とは、教師が主体であり「もう教えた」「十分に教えた」として、子どもの学びの質を無視して「平等」とする考え方である。

つまり、形式的に「教えた」ことをもって、教育的平等が保障されたとする考え方である。

これは、「一斉授業」を重視する教師によくある考え方だ。

「履修主義」とも似ている。

「子どもは授業を受けた」「私はきちんと教えた」「だから平等だ」と主張するのである。

子どもの学びの中身や質は、完全に無視される。

「本当によく理解できた子ども」「あまり理解できなかった子ども」など、さまざまな結果が考える。

しかし、これらが無視され、とりあえず「履修したからOK」「授業に参加したからOK」という考え方なのだ。

これは、義務教育において顕著である。

学びの主体は「教師」ではない。

主体は「子ども」のはずである。

子どもの学びが十分でないにもかかわらず、「平等に教えた」などと言うことは、あってはならないことなのだ。

まさに、「教えっぱなし」「教えたから良し」状態である。

これは履修主義のデメリットと言える。

一方、実質的平等論とは、子どもが主体であり「本当に学んだか」を重視し、子どもが実質的に学びを修得したことを「平等」とする考え方である。

つまり、個人差を考慮してその子どもに合った指導を行い、同じように「学べた」ことをもって教育的平等が保障されるとする考え方である。

これは、「個に応じた指導」を重視する教師によくある考え方だ。

「修得主義」とも似ている。

子どもたちのもつ個人差を考慮し、「子どもは本当に学ぶことができたか」「どれくらい学ぶことができたか」が問われることになる。

ブルームの「完全習得学習」に近い考え方である。

そのためには、厳格な「評価」が必要である。

評価をすることで、基準を超えた子どもは単位をもらったり、進級できたりする。

逆に基準をクリアできなければ、単位がもたえなかったり、進級できなかったりする。

とてもシビアな考え方である。

このようなシビアな評価観を取り入れれば、子どもたちへの教育を実質的に平等にできるかもしれない。

しかし、評価の厳格性は、「競争」を生む。

競争のデメリットは、過去の記事で繰り返し述べているので割愛するが、確実に子どもたちの学習意欲を削ぐだろう。

修得主義にもデメリットがあるのだ。

このように、どちらの考え方にもデメリットがある。

大切なことは、「教師が教えたから良し」と考えるのではなく、「子どもの学び」に焦点を当てることである。

そして、厳格な評価をするのではなく、学習の「過程」に目を向けて評価することが重要だ。

また、個人差が生まれてしまうことを恐れるのではなく、「得意を伸ばす」ことを重視する。

子どもたち全員の学力を、一律的に揃える必要はない。

それは「ロボットを生産していること」と変わりないのである。

人間には、弱点があってもいいのだ。

その分野の得意な人に頼ればいいのである。

そして、自分の得意を伸ばすのだ。

それが個性である。

そうすれば、その分野で苦手な人を助けることができる。

だから、個人差など気にせず、子ども一人ひとりの「長所」「個性」「過程」に目を向けることが重要なのである。

そうすれば、「履修主義と修得主義のジレンマ」から抜け出すことができる。

ぜひ、「子どもの学び」を中心に考える教師になっていきたい。

では。

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