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#1579 「主体的」という名の忖度

学校教育では、「主体的な学び」「主体的に学習に取り組む態度」などの言葉が使われる。

この「主体的」という言葉はどのような意味なのだろうか?

学校教育では、子どもが学ぶ内容を「学習指導要領」で限定・規定している。

教師もその範囲を超えないように、教育内容が縛られている。

学ぶ内容の裁量権が部分的に認められるのは、「総合的な学習の時間」と「総合的な探究の時間」のみである。

しかし、「学習指導要領」をもとに編纂された「教科書」の指導書を片手に指導している教師がいる以上、「総合的な学習の時間」や「総合的な探究の時間」の内容は教師主導であるにちがいない。

言ってしまえば、学校教育で子どもたちが学習する内容に、「自由」は保障されていないのである。

そのような構造の中で、どうやって「主体性」を発揮すればよいのだろうか?

そのような縛りの中で、「主体的」とはどのような学びの姿なのか?

これはもはや、「忖度」としか言いようがないのである。

はじめから決められたレールの上を、教師の顔色を伺いながら進んでいるだけである。

そのレールから外れないように、外れても教師や学校が元の軌道に戻す用力を最小限にできるように、「主体的」という言葉を使って、子どもを暗にコントローしているのである。

これまでは「主体的」という言葉を使う必要がなかった。

それは社会的に教師の立場が確立され、子どもたちも教師の言うとおりに「学習指導要領」を遂行していたからである。

しかし、時代は変わった。

「教師」という肩書だけでは、何十人もいる子どもたちをコントロールすることができなくなった。

そこで、教師が無理やり子どもたちをコントロールしなくてもいいように、コントロールしようとしても最小限になるように、「主体的」という言葉が用いられるようになった。

「いかにも」な感じはする。

「たしかに」「納得する」感じはする。

しかし、子どもたちが学ぶ内容が限定・規定されている以上、そこから外れることは想定されていない以上、やはりその言葉の意味は「忖度しろ」なのである。

「主体的に」「自分から」「教師から言われなくても」学習できる子どもを育てたいのである。

しかし、我々がつくった学習指導要領の範囲内で。

これは、今ある国家に順応する者を育てていることを意味する。

今の学校教育では、「国家及び社会の形成者」ではなく、「国家及び社会への順応者」を育成しているのだ。

「日本という国家は我々がつくった最高傑作であり、完璧であり、これから変容していく必要はない」
「このような国家に順応していく個人を育成すればいい」という思想なのだ。

したがって、自分たちがつくった学習指導要領の範囲を超えて、子どもたちが自由に探究し、自由に学んでいくことを恐れる。

だから、学習指導要領の縛りをつくり、そのレールをただ邁進するために、「主体的」という言葉をつくり出したのである。

まさに「忖度しなさい」なのである。

子どもを「主体的な学習者」にする実践は多々ある。

しかし、「自由進度学習」だって、「自己調整学習」だって、そのような学習をしても、子どもたちは「真の主体的な学習者」にはならない。

学ぶ内容が限定・規定されているからである。

手のひらの上で踊らされているのである。

そのような「自由進度学習」「自己調整学習」がもてはやされるのは、教師や学校が「これを学びなさい」「この順番で学びなさい」と言うエネルギーを減らすためである。

いちいち「学ぶ内容」を伝えたり、「学ぶための動機づけ」をしたりするのはしんどい。

だから、「自由進度学習」や「自己調整学習」などの「仮初めの主体的な学び」を子どもに押し付けるのだ。

それにより、子どもは「決められた学習内容」を主体的に学んでいるように見せることができる。

教師はエネルギーを削がされることなく、子どもも教師に怒られることなく、学習を進めることができる。

果たして、この姿に「主体性」を感じるだろうか?

私たち教師は、学習指導要領によって編纂された教科書を使って、日々の授業を進めるしかない。

そこには「内容」の裁量権は認められておらず、「方法」の自由しか認められていない。

国家が敷いたレールのそばを、教師も「伴走させられている」わけである。

こんな滑稽な構造に気づいてしまったのだ。

それなら、人間である教師でなくても、AIロボットが授業をすればいいのではないか。

学習指導要領を全てインプットしたAIロボットが、子どものそばで指導すればいい。

だが、そんな未来は描きたくない。

人間である教師にしかできない「教育」があるはずである。

次の記事ではそんなことを書いていきたいと思う。

では。

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