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#1419 内言を外言にして残す

生きていると、「これを言いたいのだが言葉が出てこない」という現象が起こる。

これは「自分への言葉」「思想」がまだ「他者への言葉」に変換されていないことを意味する。

このような状態の言語は「内言2」と呼ばれる。

そして、言葉が整理され、文法的にも適切な状態となると「他者への言葉」となる。

このとき、「概念」というフィルターを通ることになる。

「概念」を通ることで、社会的に通用する適切な言葉となるのだ。

このような状態の言語は「内言1」と呼ばれる。

ここまで来れば、あとは「外言」となって、口から社会的な言葉となって発話される。

つまり、
①内言2(思想)
②(言葉) 
③(文)
④概念
⑤内言1(発話)
⑥外言(コミュニケーション)
という順番となる。

概念を通過することで、個人の思想が社会的な言葉になるのである。

また、内言は個人の生活的概念から構成されている。

よって、常にリフレクションをして、社会的に通用する科学的概念との重なりを大きくする必要がある。

そうしないと、個人の未熟な生活的概念がそのまま表出されることになり、ときにそれは「失言」となってしまう。

さらに、内言2は思想なので、意識しないと表現することは難しい。

そして、表現しないままでいると、いつのまにか忘れさられてしまう。

つまり、個人の学習成果は他者への表現(話し言葉)や自己への表現(書き言葉)によって、外言としてアウトプットする必要があるのだ。

そうしないと、意識の外側にある思想・概念が整理されず、記憶に残らなくなってしまう。

せっかく「内言2」が形成されても、「内言1」を経由して「外言」としてアウトプットしなければ、その内実は忘れさられてしまうのだ。

なので、話し言葉や書き言葉という「他者への言葉」に変換し、それを表現することが重要なのだ。

これにより、自分の思想を論理的に記憶しておくことができる。

だからこそ、授業や学習の最後には、「省察」「リフレクション」が必要不可欠なのである。

このような意識的な省察により、外言としてアウトプットすることができ、自分の理解を確かめることができるのである。

学習の最終段階は、いつだって「自己認識」なのである。

なぜなら、物事を理解しているかどうか一番判断できるのは「自己」だからである。

教師は外側からしか判断できない。

自己による省察により、自分の思想を整理し、理解の度合いを確かめることができるのだ。

このことを念頭に置き、授業を構想・実践・省察していきたい。

では。

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