【仙人の術】

まだ静かな早朝の事だ。
比叡山(ひえいざん)の山並みを跳ねる燕が、風を裂く様に飛ぶ。

まるで万物の真意などには興味も無さそうな、気怠そうに首筋を掻く仙人がそこへ現れた。
仙人は杉の木の天辺の、ほんのわずかな針の様な足場に立っていた。
其処から京都の街を見ようとしたり、人の群れを探したり、動物を見つめたりなんかしていると
燕がそれに気付いてか、即座に地上に降り立ち翼を閉じた。燕だけではない。群れを成していたはずの烏や、上空で旋回していたはずの鳶、街の方では鹿や野良猫も微睡むかの様に腰を下ろし始める。
動物達は仙人がいるであろう比叡山の方角へ目をやった。

とある老人は家の縁側で、近所の者と将棋を指している。7七角を打ち込むと、後手はしがなく吸い終えた筈の煙草にまた火を付けた。
「来週、地区の役員会議あるやん。29日、土曜日の6時半に公民館やて」
「あゝ行かへん行かへん、んなもん嫁が代打や」

仙人は、鼻から重く息を吐き捨てる。
のたのたと歩いて来た隻眼(せきがん)の山猫が、木の根元から仙人に言った。
「人と、人に飼われた一部の動物が、貴方の存在に気付いておられないような」
「いーよ別に」
仙人は百年に一度、この土地に張られた結界を組み直しに来る。
大体これは人の為ではない、この土地の為の事だ。と仙人が言った。
山猫にはその言葉がどうにも拗ねている様に聴こえて、内で笑っていると、仙人は悟ったのかこれまた気怠そうな目付きをしてから、ゆっくりと背伸びをした。

「サクッと終わらせて帰ろう」

日に照らされ始めた木々達は、まだ静かな早朝の風に揺られながら、人々を見守っていた。
そんな静かな景色の中で、真白の衣を纏った一人の仙人が、空であぐらをかいている。何かを言った後に、仙人の目の前の景色が擦れた様な鈍い音を立てながら歪み始めた。

ぐるぐる渦を巻く、ユガム、ユガム、ジカンがトマル、ぐるぐるぐるぐる、大地が揺れて、クモがサカマク、ソラが暗くなり、ヒビ割れた地面から妖怪変化が現れる、仙人は呪詛を吐く、呪詛を吐く、ジカンがやがて巻き戻る、ぐるぐるぐるぐる巻き戻る。ーーーーーー。る戻きるぐるぐるぐるぐ、る戻き巻てがやがンカジ、く吐を詛呪、く吐を詛呪は人仙、るれ現が化変怪妖らか面地たれ割ビヒ、りなく暗がラソ、クマカサがモク、てれ揺が地大、るぐるぐるぐるぐーーー

少年がそこで初めて目を覚ますと、目の前には中腰で自分を抱きかかえる母の姿があった。自分が昨夜から神隠しに合っている事をそこでようやく思い出した。
今しがた、少年は救急車の担架に乗せられようとしている所だった。辺りではサイレンが鳴り響いている。空はもう明るかった。午前の8時を回った所だろうか、母の顔は窶れていた。
ほんまにアホやわ、そう一言だけ母が言うと、少年は本当にごめんと母を強く抱きしめて呟いた。

少年が担架で運ばれる間際、一匹の野良猫が少年の視界を横切った。廃れたボロ布の様な毛並みと、胴ほどはあるやたらに長い尻尾が目を引いた。
野良猫は少年の方を振り向いてから、もう少しで本当に帰れなくなる所だったぞ、感謝しなよ。そう人の言葉を発してから山の奥へと去っていった。

もしかして自分は神様を怒らせてしまったのではないかと、
少年は言葉だけを強く受け止めてから、そっと野良猫から目を逸らし、ごめんなさいと連呼しながら、見なかった事にした。

道すがら、隻眼の山猫は、やはりこの術は土地の為だけに唱えられている訳ではないらしいと、小賢しく笑うのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?