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英語学習を通して伝えたいこと

きのう、ある市長の質疑応答の動画を見て、がっかりした。

抜粋してある動画のようなので、少なくともその動画の中だけで理解をしようとすると、という話だけれど、彼としては「英語というものは勉強としてはなくてもいいもの」だと思っていて、「その理由はみんなに必要なものではないから」というのだ。その上で、異文化を知ることを楽しむことは必要だから、英語ではなく英会話・異文化コミュニケーションを教える、そして今の勉強方法はつまんないから楽しく・・・とかなんとか。

聞き飽きた感のある意見で、きっと、そうだ!そうだ!という大人も子どもも多いのだろうけれど、自分自身、アメリカで生活し、高等教育を受け、今、毎日、日本の子どもたちと接している私には、もう、突っ込みどころ満載だ。

まず、必ずしもみんなに必要なものではないから「勉強としてはなくてもいいもの」といいだしたら、学校での勉強なんて、何も勉強する必要がなくなってしまう。子どもの理屈だ。

また、学びの楽しみは、自分で見つけるものであり、「つまらない」かどうかは子どもたちが決めることで、こちらから「つまらないだろうから」という理由で、知識の提供の仕方を次から次へと変えたり、しなくなることによる不利益はいつも子どもたちが被っている。

同時に、英会話って何なの?異文化コミュニケーションって何なんだ?それは、直接教えられるものなのか?とも思う。

それは、いろいろな知識をつまらなくても、面倒でも、きちんと学習することによって習得し、その上で様々な交流をして身に着けていくものではないのか。

そして、文法や単語をおいておいて、英会話を楽しく学んだ先に、どんな未来を子どもたちが切り開いていけると思っているのか。

全く、見えてこない。私には、呆れと、憤りしか出てこなかった。

義務教育で教わることの多くが、皆が使うとは限らないものばかりだ。だけれど、それをかじるかかじらないかは、人生の選択肢を大きく左右する。

英語だって、同じのはずだ。

寺子屋は、古くても、つまらなくても、面倒でも、今まで通り「英語」を中心に教えていきたいと改めて強く思っている。

義務教育で「英語」を教える理由もきちんと考えて、子どもたちにもしっかりと伝える努力を続けたい。





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