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何かが、おかしい ⑯

2000年生まれの卒業生が中学生だったとき、8月の終わりになって、

「先生、税についての作文、どんなこと書いたら良いと思う?」

と、聞いてきたので

ーたしか、アインシュタインが「この世で最も理解しがたいものは、所得税だ」って言ってたから、アインシュタインの功績を延々と書いて、最後に「こんな天才でも理解できない税について、僕がわかるはずはない」
で、締めくくってみたら?

と、言ってみた。

「そんなことしたら、ぼく、先生に呼び出されてめっちゃ怒られるやろ。」

と、即、却下されたけれど、私が中学生だったら、その内容で堂々と書いて出していただろう。

今年の夏休み、中学生の「人権作文」のテーマのリストを見ながら、そんなことをふと思い出した。

人権問題として挙げられているテーマの中に、女性問題、高齢者問題、東日本大震災、戦争と平和、性の多様性、情報社会とプライバシー、オリンピックとパラリンピックなどがあったけれど、多分、私には先生たちが期待する作文は、書けないだろうなと想像して苦笑してしまった。

私が受験した大学は、3校、そのすべての学校の試験内容に「小論文」という項目が入っていた。

そのため、高校3年生のとき、「国語表現」というクラスをとり、1年間、毎週テーマを課され、作文を書いた。その授業は大学入試に有効だっただけではなく、その後の私の人生を大いに楽にしてくれたと思っている。

アメリカの大学院に行って、英語で文章を書きながら、さらに感謝したのを覚えている。

「作文」という課題ー生徒たちの考える力と表現力をつけるために大切な課題だと思う。でも、一方で、毎回子どもたちの「作文」への姿勢を見るたび、「課題」を課すだけの学校に大いに憤る。そして、子どもたちが書く前にこんな結論を書けば、大人が喜ぶことを予想している風なのにも首を傾げる。

夏休みの課題としてだけではなく、日ごろから作文というクラスを1つ増やすなり、作文の時間きちんと取るなりする方が、英語の時間数を増やしたり、英語の教科化を早めるより必要なのではないかと、思うことが多い。

子どもたちといろんな話をしながら、作文の内容を詰めたり、調べたりする作業を大いに楽しみながらも、句読点のつけ方や、書く場所、下書きをすることなど基本的なことができない中学生たちを見て、ぼやく夏休みももう、始まって10日ほど経っている。




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