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「教える」「指導する」「してあげる」という概念を一度手放してみればいい件について

 今年はまだ、日本国内はコロナウイルス感染症の拡大が止まらない情勢下でありますが、それまであった様々な制約や行動制限による縛りはさほどなく、日本国内のバレーボールの各種大会も実施されています。2~3年越しの”ようやく”という思いの方も多いのではないでしょうか。どの種目でも、この夏、各種「全国大会」にも熱い視線が注がれていました。バレーボールでも、(小学バレー)全日本バレーボール小学生大会、(中学バレー)全日本中学校バレーボール選手権大会「全中」、(高校バレー)全国高等学校総合体育大会「インターハイ」が行われました。秋以降は国体(国民体育大会)や春の高校バレー予選も行われます。

 毎年のことながら、これらの大会に出場し勝利を収めていくために、どれだけの努力と苦労があるのか。それはみなさんもその大変さや並々ならぬ指導力を要することは認めるところだと思います。それゆえ、この舞台に立つ喜びも大きく、多くの人が目指したくなるのだと思います。
 他方、小中高校生たちが、それぞれのカテゴリで繰り広げられる熾烈な競争とそれにともなういろんな光景に複雑な気持ちになることも多いです。そして日常のバレーボールの指導現場で起こっているさまざまな課題や弊害を目の当たりにしている者としては、この熾烈なアンダーカテゴリーの日本一決定競争が果たして「あるべき姿なのか?」といつも考えさせられてしまいます。

もう「みんな知っている」バレーボール指導の弊害や問題

 近年は、バレーボール界でも様々な著名人や有識者らによって、日本のバレーボール、特に小中高校バレーにおける指導風土に警鐘を鳴らす方も増えてきました。それ以外の方もSNSやメディア記事での投げかけもあります。そしてバレーボール界隈以上に他競技からの話題としても投げかけがさかんに行われています。

・暴力や傷害(体罰)、暴言、ハラスメントによる人権侵害
・指導者の強権のもとでの思考停止や洗脳的な影響
・過剰な練習量や負荷による故障やバーンアウト
・カタはめや偏った指導によって狭められる将来性
・ミスを極度に恐れるミニマムマインド
・トップカテゴリーの強化につながらないガラパゴス的な指導や戦術観
・オーバーハンドパス(セット)のハンドリング問題

 こういった問題の指摘は、ここ数年でかなり一般的な評価として浸透してきていると思います。
 そして、これらに対して

・カテゴリやレベル別のリーグ(リーグ制大会)を導入する
・一定時期まではすべてのポジションを経験、練習する
・試合は全員に出場させる、出場経験は全員に与える
・試行錯誤と思考錯誤を断たない
・主体的、対話的で深い学び
・楽しさとモチベーションへの工夫
・十分な休息と休養
・フィジカルと栄養
・動作原理に基づいた技術指導

などなど、さまざまな知見やオピニオン、そしてチャレンジングな取組が始まっているのも事実です。
 しかし、残念ながら、問題意識は広がりつつあるにもかかわらず、これらに対する取り組みの具体的な広がりは大変遅い。全体としては、あまり進んではいないのではないででしょうか?
 私は、全国大会廃止論者ではありません。全国大会崇拝論者でもなければ全国大会美化論者でもありません。ですが、小中高校バレーの全国大会を取り巻く様々な光景には問題意識がいまだ拭えないのです。

モラルハザードはどこからやってくるのか?

 常々、問題とされるスポーツ指導者のモラル問題。暴力(俗にいう体罰とよばれるもの)や暴言、その他選手たちへの高圧的な言動や横暴な態度・・・残念ながら、いまだに全国各地の現場で見られるのが現状ではないでしょうか?  
 指導者と称す、指導者と呼ばれている側の問題は根深いものがあります。そういった指導者たちを観察していると、

・「どーだ俺って(指導力)すごいだろ」っていうマウント型
・「俺はこうやって習得したからアナタも」っていうおせっかい型
・「俺が苦労してやってきたことは正しいはず」っていう自己肯定型
・「あの人みたいになりたい」っていうモデリング型
・「~って~から聞きました」っていう虎の威を借りる型

などなど、こういったタイプの指導者がまだまだ多く見受けられます。もちろん、すべての指導者がこういうタイプではないし、もちろん素晴らしい実践をされている指導者もたくさんいるのを知っています。
 いずれにしても、これらに共通しているのは「プレーヤーズ・ファースト」から逸脱してること。世間では、プレーヤーズ・ファーストというのは、選手に対して否定しない、怒らない、楽しませる・・・といった認識が強い風潮も感じられますが、一番重要なのは「主体は選手(子供)」であるということです。

モラルに抵触していなくても是正したい「教え魔」

 バレーボールの指導(コーチング)と称して「教えたい」「教える」「勝たせたい」「勝たせる」「指導してあげる」・・・に言葉が変換された瞬間から、モラルの土台がゆらぐきっかけになるような気がします。
 なぜなら、主語が「自分(指導者)」、主体が指導者になってしまうからです。これが難しい。なぜなら、とはいえ「より良いチーム作り」、「よりよい選手の育成」などというものを願う時、当然「自分には何ができるか?」「自分は何をしたらいいのか?」という自己への問いかけになるからです。仮に「For Me」(指導者である自分のために)ではいけないと分かっていても、そこから「For You」(選手たちやチームのために)と思っていても、それ自体が間違っている可能性だって否定できないわけです。なぜなら、これまでも幾度も問題になった暴力やモラルに反した事案では、「子供ためを思って」、「選手にとって必要だと思った」という言葉が繰り返されているからです。
 指導者のモラルハザードは、「主客転倒」の思考が大きく影響している。しかも、多くの場合は「正しい・必要だと信じてしまっている」わけです。つまり、指導者の心理として、お題目は「選手のため・チームのため」と思いながら、実際やっていることは指導者の実績や評価、「承認欲求的なやりがい」のためという意識につながっていることに「気が付いていない」ということです。
 そうなると、「指導」とか「教える」という概念自体を一度見直すことが必要なのかもしれません。決して「教えない」とか「指導しない」ということが大事だということではありません。「指導」や「教える」というのは、対象となる選手やチームの向上のためである。ただしそれらは、選手やチームの主体的な営みであり、決して指導者自身のためのものではないということです。

 教える・指導するというのは、「オレのやり方」「オレの理論」ではなくて、スキルの習得や思考力向上に向かう「試行錯誤」状態に向かわせることです。

 だから、いちいち自分(指導者)の言う通りにやらせようとする「教え魔」現象は気を付けなければいけません。

「ゼンコクタイカイ」と「間に合わない」

 これら指導者にかかわる問題は、何も指導者自身だけの問題ではありません。なぜなら(経験上)、チームの指導に関わると、有無を言わさず勝ち負けの厳しい競争世界にある独特の風土に巻き込まれるからです。
 私は、今の世の中、不適切な指導や指導者に対して厳しい目が向けられていること自体は正しいと思います。しかし、その風潮は単なる「取り締まり」や「マウント的な非難」にとどまっていてはいけないと考えます。それこそ目的と手段が間違っています。
 もっと、アンダーカテゴリーの指導者が抱える「闇」にもサポートがほしいと思っています。「勝たないと意味がない」、「勝って説得力をもつ」、「優勝以外は2位も予選落ちも同じだ」・・・こんな言葉が未だに飛び交っています。その背景には、保護者からの理不尽な勝利の要求と指導への介入によるトラブルがあり、指導者間のハラスメントや誹謗中傷やいじめ、陰湿な派閥争いが横行しているのです。そういった中で指導者をやっている人間のメンタルの闇にも世間のサポートが必要です。そういった中で、ほぼ無償で日夜、バレーボールのコーチをやっている人々が大勢いるわけです。
 そんな面倒な周囲を黙らすために、バレーボールの各カテゴリーでは、そのカテゴリーに与えられた限定的な期間、単年度のチーム作りや、長くても2~3年での強化に縛られなけれななりません。当然指導者は焦ります。常に間に合わなかったどうしよう、勝てなかったらどうしようと思います。ですからその不安やストレスに対処するために、なりふり構わない手段で、必死に勝とうとするわけです。これらは「育成」においては、極めてショートスパンで無理のあることです。 
 (本来)長い将来性と果てしない伸びしろや可能性のある子供たちを相手に、短期的な現時点での「強さ」「うまさ」だけで生き残りと振るい落としを競い合う現状にあります。
 さらには、プレーヤーズファーストとは程遠い、主客が真逆になった「大人たちの勝負ごと」になっています。これは、日本のバレーボールの未来にとっては由々しき事態ではないでしょうか?

 カナダなどから取り組まれている、スポーツ選手の育成は、ロングスパン、ワイドスケールでの取り組みが広がり、日本でもバスケットボールなどでも試行錯誤が始まっています。

小学バレーと「間に合わない」

 その時点で試合に勝つために、身長の大きい子をフロントにおいて、ブロックやスパイクに専念させ、その時点でボールコントロールが上手な子をセッターやディフェンスに専念させます。試合に出る子は、かなり限定的で、練習も平等に機会が与えられるわけではありません。全国大会は夢舞台、そう思うのは「※個人の感想です」であればいいのですが、現状そうなってはおらず、何か大きな同調圧力がかかっていて、結局大部分の人々が、その偏った価値観に巻き込まれています。

中学バレーと「間に合わない」

 中学入学の段階で、選手(子供たち)のリクルートが熾烈になります。もちろん小学バレー経験者よりも、中学からバレーボールを始める子供たちの方が多いわけですが、中学バレーのカテゴリーにおいて、小学バレー経験者のスキルを、中学から始めた子供たちが追いつき追い越すのはそう簡単なことではありません。ですから、チームの勝利を望む指導者や保護者は、経験者を集める環境を求めようとします。
 バレーボールの普及においては、ビギナーの拡大こそ競技人口の宝であるはずなのに、指導者はその重要性を直視していないようです。

高校バレーと「間に合わない」

 高校野球の「甲子園」に象徴されるように、現代において高校スポーツがエンタメ化している感も否めません。ですから、いろんなドラマや見どころを過度に期待する風潮があります。そうなると、より強く、より高度な技術集団を・・・と求める結果、子供たちを対象としたリクルートはさらに過剰になっていきます。そうでもしないと、社会から認められ賞賛される実績をあげることができないと考えられているからです。
 また、当事者である選手や保護者の立場から言っても、この高校バレーのリクルートのレールに乗らないと、さらにその先にあるトップカテゴリーへの道が狭まってしまうという問題もあり、こういった要因が指導者のマインドに「勘違い」を引き起こしやすくしてしまいます。

思考錯誤、自己対話と「リテラシー」を点検する

 バレーボールの世界に限らないことですが、コロナ禍というのは、私たちのライフスタイルに大きな影響を与えているだけではなく、それによって「価値観」みたいなものを変えている気がします。
 オンラインによる情報の活用が進んでいます。情報入手や学びの手段でもオンラインが当たり前になってきました。今では、国際大会や海外リーグの試合観戦もオンライン上で観戦するのが当たり前になってきました。

 しかし、この情報の収集が、単なる「ハウツー・コレクター」化している指導者が少なくありません。これによって、本質が少しずつ脱線して伝わったり、本質がおさえられないままでの形態だけの模倣により学習効果が得られなかったりする問題もあります。さらには、情報の発信自体に合理性に欠けているものも見受けられます。
 バレーボールとオンライン。とりわけ指導方法や練習方法に関する情報の受け取り方、リテラシーについても指導者のマインドの影をみることができます。

「ハウツーもの」があふれている

 昔は書店に並ぶ書籍やVHSビデオテープやDVDなどの教材的映像を購入してでないと得られなかった情報も、現在はWEBの上のサイト、アップロードされている論文や文献資料、動画サイトに投稿されている動画などで、いつでもどこでも情報を入手できます。同様に情報発信も誰でもできるようになっている時代です。
 それよりもまず気になるのは、書店に並ぶ書籍は、時代が変わってもだいたいテイストは似ているものが多いです。それはもちろんマーケティングが絡むものですから、筆者の意図だけではない様々な事情があるので、仕方がないと思います。何十年たっても、書籍の内容はあまりアップデートされていません。それは「ハウツーには限界がある」からです。
 人間の運動の学習や習得、動作の学習や習得は、学習者である「本人」自身の中で行われるものであり、そのアプローチや本人の最適解は千差万別です。

 そうなると書籍による情報だけでは余計に不十分です。WEB上で得られる文献や動画は便利なのですが、どんな人がどの程度の知見に基づき、どのくらいの合理性や根拠がある情報なのかがわかりにくいです。

「ハウツーもの」に飛びつくだけの指導者

〔おさえておかねばならない前提・現実〕
●運動の習得には時間がかかること
●特にバレーボールのゲーム性を高めるまでには何年もかかること
●運動の習得は目に見えにくい実感のもちにくいグラデーションで進むこと
●一人一人習得の過程やスピードが違うこと
●一つの指導法が全員にあてはまるとは限らないこと
●外発的な刺激では限界があること

〔前提や現実に対して起こっていること〕
 上で示した前提や現実があるのにも、かかわらず、自分が行う指導への安心が欲しい大人の心理が働いているように思います(かつての経験上)。特に比較的短期間で目に見える成果や成功を欲しがります。そうなると、自分が手に入れた情報を、自ら吟味や検討することなく、そのままコピー的に実践してしまうことになります。

著名人やトップ選手が~と言っている

全国常勝の指導者が~と言っている

優勝チームが~という練習をやっている

もちろん、彼らの経験してきた世界や見てきた景色は、私たちに貴重な示唆を与えてくれるものです。しかし、その情報をただ単に鵜呑みにして、やらせていれば、うまくいく・・・そんなにバレーボールは容易いものではないはずです。
 仮に、言った通りになっているとしましょう。そしてそれが比較的短期間でできているとしましょう。その場合は、情報が正しいというよりも、短期間で言った通りにやれる情報であると考えた方がよいかもしれません。

 それでもみなさんは、「〇〇すればできる」、「絶対身につく〇〇」と題されたものにとびついてしまいます。それはできるだけ早く確実に選手のスキルアップを求めている証です。
 誰かの言っていることをそのまま咀嚼したり模倣してやらせて、「はやく上達しろ」と言うのは、コーチ(あえて指導者と言わない)として適切でしょうか?そうじゃないと思います。

「感覚」を「教える」・・・というおかしな表現

・手首をやわらかく使っている(という感覚)
・空中で身体が浮いている(という感覚)
・ボールが止まって見える(という感覚)
・軸ができている(という感覚)
などなど、こういった表現は、どこかの時代から、熟達したプレー経験のある人々によって言語化されたものであると考えます。その人本人が、自らの感性を総動員して獲得したスキルは、そのすべてを言語化によって他者に転移させることは不可能です。
 ですから、上級者やトップカテゴリーの選手や指導者が、自分の感覚を言語化して、対象である選手に再現させようとするのは気を付けなければいけないのです。

暴走、迷走、不毛な争いを抑止するために

 バレーボールの指導に関する情報リテラシーについて、以下の記事に私も同意、共感しています。

(記事から引用)
指導者が知ろうとすべきことは
よって、「知ること」で役に立つのは
・動作原理
・解剖学
・物理学
・発達過程
であり、後はひたすら自分で「観察」するしかないと思いますが、
・観察のポイント
も、知ることで役に立ちますね。
(引用おわり)

 私は、いろんな方の情報発信や表現することはもちろん自由だと思っていて、むしろいろんなリアクションを受ける可能性がある中で、果敢に発信さして情報を提供されていることに敬意に近い念をもちたいです。

バレーボール指導に関する情報(映像や説明など)を入手する際の私なりの視点

 みなさんと一緒に考えたいのは、情報の発信の在り方以上に、情報の受け手の課題についてです。時代の変化、情報化が絶えず進化している中で、誰でも情報を発信し、それらの情報にアクセスすることができます。しかし、情報が多くなればなるほど、その内容や質も多様になります。ここでは、個別の情報発信を良い悪いとジャッジしたいわけではありません。しかし、情報の受信側がより適切な情報をキャッチできるようにした方が、育成やスキルアップにおけるロスがおさえられます。

・「あくまでも個人の感想です」になっていないかを見極める
・多角的な知識や情報に基づいているか。対応しているか。
・「バレーボールの構造」をおさえたものになっているか。
・「X」させたければXせよと言っていないか
・「TO DO」の羅列ではなく、「観察」眼と「感察」マインドの視点があるか
・精神論よりモードではなく、「試行錯誤」や「探究」「探索」モードへ誘導しているか

 私たち情報の受け手としては、このような視点で、様々な指導情報にアクセスることが必要だと考えます。

指導者の学びやアップデートが進まない要因は何か?

 バレーボールが時代とともに変わっていく。それは4年に1度のオリンピックのゲームを辿るだけでも大きく違ってくることがわかります。
 ルールの変更がなされます。育成やトレーニングには科学的知見やデータが次々と活用されていきます。映像解析などのテクノロジーも進みます。そして人々や社会の「価値観」も変わっていきます。
 ですから、「バレーボール」も変わってきているわけです。そうなれば技術の「基本」も変わってきて当然になります。しかし、日本のバレーボールの指導場面を目にしていると、何年たっても変わらないものが多く存在します。明らかに、現代バレーボールにおいて系統的な指導にフィットしていないにもかかわらず変わらない理由とは何でしょうか?
 ・過去の自分(選手時代)を否定される錯覚と心理
 ・大人自身が成長を待てず、試行錯誤から逃げている
 ・教育における「指導と評価の一体化」が機能せず、評価が一貫していない
 ・チームという組織のビルドアップにおける成長サイクルが機能していない
 ・情報の収集の段階で自分に都合のよいフィルターがかかりやすい
 ・カテゴリが違うと、基本技術は違うと思い込んでいる。
 ・勝つ方法ばかりを探そうとしている

などなど、やはり発生している要因は、主客転倒、指導する側の大人の事情、「それはアナタの事情でしょ」というものが多いのです。

アンダーカテゴリーが重要な理由

バレーボール学会第27回一般研究発表において発表させていただいた、

バレーボールの⼀貫指導実現のための階層構造の検討
Discussion of the hierarchical structure for the realization of
consistent volleyball coaching
では、トップカテゴリーの「今」に考察の土台を置いた、バレーボールの戦術などのトレンドをどのようにして構造的にとらえるのか。また、戦術や技術のアップデートはどのようにして起きていくのか。そういったものを経験則や感覚などに頼った主観的な考察ではなく、構造的にとらえることで、バレーボールに関わる全ての人一人一人が「バレーボールの当事者」としての意識をもって、様々な立場の人々が対等に、ディスカッションや検討、分析などに参画していくための共通項、共通の認識を成すことにつながると考えます。


 世界に置いて行かれないため、ひいてはそれは、よりたくさんの選手がより長く探究や挑戦を続けられるようなマインドやフィジカルを手に入れるようナビゲートし、選手が試行錯誤できるという環境作りを整えるのが指導者の役目。 でも、試行錯誤さえできれば、全く好き勝手にやっていいのかというと、それでは時間がかかりすぎる。 世界の現在のトレンドを踏まえた上で、それに対抗できるベクトルに向かって、そういう試行錯誤ができる環境作りを土台に置く必要があり、それは日本全体で共有すべき。すべきというか絶対必要。 その土台になる、下のレイヤーの「バレーボールの標準」に定めるべき事項を、具体的に決めていくという作業を、指導者全員がやらなきゃならないのです。

 スポーツ指導上のモラルや社会規範上の問題、国際的な競技力の問題、競技人口や普及の問題。いろんな問題があり、互いに関係をもっていると考えられますが、根本的な要因の一つに、「教える」「教えてあげる」「指導する」という概念からくる、気付かないうちの主客転倒による人々のマインドも大きな要素かもしれません。

※東京2020オリンピックで銀メダルを獲得して周囲を驚かせた、バスケットボール女子日本代表。そのヘッドコーチをトム・ホーバスから引き継いだ、恩塚亨さんの考えには、たくさんのヒントを感じます。


(2022年)