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「ここをこうすればいい」という動画やコメントばかりあふれている件について

ネットに溢れる「医療デマ」は直接命に関わったり、詐欺クリニックに引き込まれたりするし、とても放っておけないことはコロナ騒動を見ても良く分かると思いますが、バレーの「ここをこうすればいい」という動画やコメントは(怪しげな団体につながってしまうとまずいけど、団体活動としてやってるんじゃないやつは)、やってみて上手くいけばいいし、上手くいかなければ忘れられるだけだろうと思うので、ヒントとして試してみる分にはいいんじゃないかなと思います。まあ、ネットの世界は玉石混淆ですもんね。

と書いたところで、某有名劇団の発声法の話が入ってきたりして。団体としておかしなことを信じ込み、それが発信されていくとやっかいですね。


多分こういうことなんだろう

・指導者の多くが「やり方を説明してその通りにやらせる」のが指導だと思っている。
・教わる方も、「こうすれば上手くいく」というのがあって、それさえ教えてもらえればいいと思っている。
・「こうすれば上手くいく」には、さも理に適ったような説明があったりして、「やり方を説明してその通りにやらせる」のに都合がいい(ストレートアームスイング等)。
・「こうすれば上手くいく」は、ある人が、その人なりにいろいろできている状況で、ある時に、たまたま意識してみたら上手くいったことを「このプレーはこれを意識すれば上手くいく」と言っているだけの可能性が高い(だから「その人なりにできている状況」が違えば上手くいかなくて当然)。
・「自分がやっていると思っていること」と「実際に起きていること」は違うのが普通だが、それを認識するのも確かめるのもとても大変なので、「こうすれば上手くいく」のようには当の本人はやっていないことが多い。
・「意識」と「やっていること」とは違うので、やるべきことと真逆のことを意識して上手くいくこともある。

「する」と「なる」とは大違い

・「こうすればいい」は「する」ことにフォーカスしているが、多くの動作は、そう「なる」ものなので、それを意識的に「しよう」とすれば余計におかしくなる。

典型例がスパイクスイングで、肘はフォワードスイングによって振られて「上がってくる」ものなのに、「上げよう」とするとテイクバックの位置が高くなってしまい、腕を振った時にかえって下がってくる。「上げようとするから下がってくる」。「サーキュラースイングにしよう」と意識すると「肘が円軌道を描くように動かそう」としてしまい、かえって手打ちになる。

動作習得のために指導者ができることは

・「意識」「筋収縮」「動き」には時間のずれがあるので「意識した通りに動かせる」ことはなくて、起きた結果から「意識」を修正していくしかない。
・実際の動きはほとんど「無意識」で成り立っている、というか正確・詳細に認識できない。
・やりたいことができるようになるには【試行錯誤】で感覚をつかむしかないし、「感覚」は教えられない。
・動作習得のために指導者ができることは「試行錯誤の環境のデザイン」「試行錯誤のガイド」しかない。
・試行錯誤のデザイン・ガイドの中身は【観察】で決まる。
・何が起きて欲しいか、何が起きうるのか、その動作は普通おもにどんなもので成り立っているかが分かっていると、試行錯誤をデザイン・ガイドするのに役立つ。
「その動作は普通、主にどんなもので成り立っているか」【動作原理】
「何が起きているのか、何が起きて欲しいか、何が起きうるのか」は「観察」するしかないし、それを理解するには、身体の構造「解剖学」、動き「物理学(力学)」、「発達過程」(シェルハブ・メソッド等)を知ることが役に立つ。

指導者が知ろうとすべきことは

よって、「知ること」で役に立つのは
動作原理
解剖学
物理学
発達過程
であり、後はひたすら自分で「観察」するしかないと思いますが、
・観察のポイント
も、知ることで役に立ちますね。

「あなたにもできます」

「ここをこうすればいい」というか「これさえやれば救われる」というのを求めるというのは非常に強くて、それに答えるように見せないと視聴率が稼げない、本が、記事が売れない、PVが稼げないというのは、某雑誌に原稿を書いたときに強い「圧」として感じました。それに負けたくなかったので、「そんなものはなくて、大事なのは『当たり前』のこと」という意味を込めて、そこでは「スター選手のあたりまえ」というタイトルをつけました。
「動作は試行錯誤で自分の感覚をつかむしかない」というのが「当たり前」なんですが、「こうすれば上手くいく」を求める人にはとんでもなく面倒に思えるんでしょうね。
でも、「試行錯誤は誰にでもできる」
「あなたにも試行錯誤のガイドは簡単にできる」
「始めたときから、その喜びを味わえる」

といつも言っていたいんですよね。
もちろん、「どこまでも奥は深い」けど。

スポーツ指導こそ「真の学び」を提供できる

今学校では、文科省主導で「主体的・対話的で、深い学び」の実現が求められています。しかし、教師がやらせたいことを「自主的に」やるようにしむけることに終わっている感もあり、入試制度との根本的な矛盾もあり、混乱が続いている状況ではないでしょうか?

スポーツの動作学習は「試行錯誤で自分の感覚をつかむ」しかないし、指導者は「試行錯誤をデザイン・ガイドする」しかないわけですから、まさしく「主体的・対話的で、深い学び」を実現するものだと思います。

「自分で答を探して、自分の答を見つける」ということから始め、「自分はどうなりたいのか? そのために自分ができることは?」といった大きな課題も問いかけていけるはずです。最初から「あなたはどうなりたいですか?」と聞くよりも無理のないやり方だと思います。それも「相手次第」でしょうが。

追記:こんな動画が役に立つかも?

・「結果的にこうなるには、こうしてみるといいかも」といった「試行錯誤のやり方」を紹介する動画:学び方を学べる
・試行錯誤で変わっていく様子を紹介して「観察のポイント」を伝える動画:「ここを見てみましょ」
・実際の動作を身体の構造と力学から解説する動画:(例)【フォーラム】セットのバイオメカニクス(前編)(後編)
・「観察の喜び」を伝える動画:試行錯誤で成長していく姿を見るのはとてもうれしいことだし、そのお膳立てを考えることも、「何がつかめそうかな?」と考えることも、そのために「今、どんな意識でやっていて、その結果何が起きていて、何を感じているか」を観察するのはとてもワクワクするんですよね。(例)保育園の「表現者たち」展「素材の特性から喚起されるもの」

2023.12.28 追記
「やり方を説明してその通りにやらせる」のが指導という思い込みは、「言語化の限界」を知らないことが要因のように思います。「言語化」について、大事なことがとても分かりやすく書かれている記事があったので貼付けておきます。「言語化」の限界と役目を知り、どう利用すべきかをしっかり押さえておきたいですね。


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