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日本における外国人材の流動化にチャレンジするビジネスマンの話【"㈱With World"代表 田村一也さんの半生】


「自分の人生に覚悟を決めたヒト」

将来について漠然とした不安に苛まれる時がある。

家族のことや、親のこと。仕事のことや老後のこと。

今までだったらやり過ごせたことも、年齢を重ねていくにつれてこの漠然とした不安と一つ一つ向き合わざるを得なくなってくるような気がする。


日本と外国



それこそ今までだったら見過ごせたことも、ロシアのウクライナ侵攻や新型コロナウイルスの拡大をきっかけに"日本"という漠然とした不安について考えざるを得なくなってしまった。

"日本"を考えるということは"外国"を考えるということ。鎖国をしている時代ならまだしも、今やグローバルにモノや情報が行き来する時代。外国のことを知らずに日本のことを知ることは出来ない。

取ってつけたような一丁前なことを言ったけれども、日本と外国・・・今更自分に専門領域があるわけでもなく、どこから手をつけて良いかわからない。日本と外国について考えるきっかけを与えてくれるヒトは自分の周りにいなかっただろうか。





確か大学時代に所属していた学生団体の先輩が、留学生のサポートをしているとFacebookで見たような気が。それに関する本も出版していたのでは。





いた!田村一也さん。あだ名はたむさん。

いつもひょうひょうとしていて、冷静沈着。何事にも自分なりのロジックを持っていて、意思決定も早い。その上優しくて、明るくて、面白くて、ピッチャーもキャッチャーも内野も外野も全部守れるんじゃないかと思うユーティリティー性とフットワークの軽さを持っておられるお方。人材業界に長く勤められていて、大学卒業後もことあるごとにお世話になっている比較的距離の"近い"尊敬する先輩だ。

でもここ3~4年はコロナもあって連絡をとっておらず、最近のたむさんが何を生業にしているかも詳しく知らないし、よくよく考えたらたむさんが長く勤められた人材業界の仕事も知っているようで知らない。

久々に連絡を取り、喫茶店で再会。昔話に花が咲く中、今回の趣旨を伝えたところ快くインタビューを快諾してくださった。相変わらずのユーティリティープレイヤー。

後日インタビューをさせていただき、たむさんの現在の事業領域である留学生や外国人材のことを、多少は理解できたのだが、、、

"理解"という言葉を出すのもおこがましいぐらいとてつもなく難しいチャレンジをされていた。録音されたインタビューを聞くと「いや、ほんまこれ大変な仕事してますね」というつぶやきを何度も無意識に発していたほどだ。

インタビューは約2時間。それだけで"日本と外国"の全てを理解することは難しい。"日本と外国"というテーマは非常に繊細な側面を持ち合わせているし、たむさんの半生の切り取りであることは否めない。そこを踏まえた上でこの記事を読んでいただけた方が"日本と外国"のことを考え始めるきっかけになれば、将来の漠然とした不安に向き合う一歩を踏み出せるのではないかと思う。


(取材・文・編集/奥行太郎 写真/田村さん提供)

【プロフィール】田村一也さん

1982年生まれ。新潟県柏崎市出身。立命館大学卒業後(株)インテリジェンス(現:パーソルキャリア(株))入社。入社以降一貫して各領域の新規事業の立ち上げに従事し、2015年より外国人留学生の採用・就職支援を行うグループを立ち上げ。中韓ASEANを中心に年間約300名の留学生の面談を行う。2016年(一社)日本国際化推進協会(JAPI)に転職、事務局長に就任。2018年株式会社With World 設立、代表取締役に就任。"外国人材専門の人事部になる"をミッションに外国人材に関する研究調査とサービスの開発に勤しんでいる。趣味は旅行。

小学校~大学生の田村さん


田村さんの半生は新潟の柏崎市から始まる。幼少期の田村さんは自身のことを"いい子"と表し、物心ついた頃からクラスの"裏方"を任されていたそうだ。はて、クラスの"裏方"とは。

18歳まで新潟県の柏崎市で過ごしました。幼少期はどうだろう、自分で言うのもなんですが多分"いい子"だったと思います。笑。誰も答えられない時とか授業が進まないなという時は先生とコンタクトをとって、あえて僕が答えたりしていたと思います。

クラスに1人必ず"裏方"はいたなと思いながら、どういう幼心が働いて"裏方業"をすることになったのか。

そもそも表に出るのがそんなに好きじゃなかったんです。裏から円滑に授業が回るように働きかけて、皆にストレスがたまらないように進むのが気持ちいいというか。そのおかげで内申点はすごいよかったですよ。先生から毎回学級委員になってと言われました。親はそういうタイプじゃなかったですし、どうしてこういう能力が身についたんでしょうね。ちょっとよくわからない。

組織を円滑に回すというスキルは一朝一夕に身につくものではない。この特殊能力は後の田村さんの進学や就職活動のベースとなっていく。中学、高校はバスケとサッカーに明け暮れ、勉強もほどほどに頑張っていたという田村さん。大学進学時に一つ目のターニングポイントを迎えることとなる。

大学受験に失敗しまして。一浪することになりました。勉強してなかったわけじゃないんですけど、なぜか落ちましたね。浪人することになって柏崎市から新潟市に引っ越しをして予備校に通いながら勉強に明け暮れることになるんですが、まさかのもう一浪。"二浪することになる"という展開を迎えます。笑。
予備校に1年通って「ありがとうございました」と挨拶をしたのに「ただいま」とすぐに戻ってきたのは辛かったです。笑。本命の大学を受けた時に体調が悪かったっていうのはありますけど、さすがにびっくりしますよね。

私の周りに二浪しているヒトがあまりいないせいもあるのか、正直2度も浪人してしまったことに対して、田村さん自身がネガティブなイメージを持っているのではないかと思ったが、むしろプラスの方向へのターニングポイントとして捉えていた。

ここがなぜターニングポイントかというと、二浪の経験がその後の自分の生き方に大きく影響を与えたからなんです。大きく2つありまして。1つ目は現役時代には全然できなかったことも、徹底的にやればできるようになるという感覚をつかんだこと。最終的に志望校に合格することになるんですが、奨学生でいけることになりました。
一浪時代にもそれなりに勉強してたんですけど、とはいえ中途半端にするのもよくないし2年目は本当にやばいなと思って。友達という友達と縁を切って1日14時間ぐらい勉強しました。徹底的にやればできるっていうことがわかったので、大学時代は充実してましたし、自己効力感がとても高まりましたね。
2つ目は、二浪したからこそ大学生活の過ごし方を事前に決めることが出来たということですね。二浪してると焦りがすごいんですよ。大学生活取り戻さなきゃみたいな。笑。だから大学に入学する前の段階で、大学入ったらあれしよ、これしよっていうのが決まってたんです。どのように過ごしていくかっていうのも決めてましたから。大学時代はすごく充実した4年間を過ごしたなっていう感じです。

無事に立命館大学へ進学した田村さんは、水を得た魚のように大学生活を満喫することとなる。特に自身の半生に影響を与えたのは、3回生まで続けた放送サークルだそう。この経験が二つ目のターニングポイントとなった。

立命館の放送サークルっていうのは結構規模が大きくて。"中央団体"と言われている大学の学生サークルの中でも中心的な役割を担っている団体の一つで、通常活動としては昼休みに流れる音声と映像の放送を学内に流していました。
ただこの放送サークルっていうのは対外協力とかを積極的にやっている中央団体で、例えばインカレ的なスポーツの大会があったら現地に行ってスピーカーを立てて実況中継をしたり、入学式や卒業式があれば音声と映像のサポートをすることもありました。
それこそ学園祭の実行部隊は放送サークルだったんです。ステージを全部作って、音響や映像を整備して、ステージでしゃべるヒトも選んで、その全体の指揮をとったりと、やらなければならないことは多岐にわたりました。僕は映像とか放送よりそのステージに興味を持って入部した感じです。
そのステージを成立させるために、パフォーマンスをしてるヒトを見つけてきたり、バンドのオーディションをしたりしました。本気でパフォーマンスしているヒトのいいところを引き出しながら、それをどういう風に見せたら多くのヒトに良さが伝わるか考えたり、実際それをやってみたヒトたちが喜んでる姿を見るのが、自分的には気持ちいい瞬間でした。


人材業界で培った今につながる礎




僕自身は大学生活を満喫できたとは言えず、それこそ殻に閉じこもった4年間を送った後悔しかないのだが、田村さんの話を聞いていると、いかに自分の選択の視野が狭かったのかということを痛感させられる。放送サークルでの経験は就職活動にもつながっていく。

結局そのサークル活動があったから、就職活動する時に「"成長産業"で"色んなヒトと出会えるような""風通しのいい"組織で働く」という軸が定まりました。
放送サークルでの経験を生かすためには、広告や企画の仕事かなと初めは思っていたんですけど、インターンシップも含めて色々な業界を調査する中で出会った"人材業界"に魅力を感じまして。
キャリアコンサルタントという職業が一番自分が経験してきたものと近いなと思いました。求職者の方の話を聞き出しながら、良いところを見つけ出して、もっとこういう業界や職種で活躍できますとかって助言やアドバイスをしていくという仕事ですね。
ちょうど教育への関心やヒトを育てるみたいなところに興味を持っていたので、総合的に色んなことが出来そうな(株)インテリジェンス(現パーソルキャリア(株))に入社を決めました。

その後(株)インテリジェンス(現:パーソルキャリア(株))で9年間勤めあげた田村さん。入社してから一貫して新規事業の立ち上げを経験してきたそう。

入社当時は若気の至りで少々尖っていまして。笑。「立ち上げとかしたいです」と言ったら、京都支社の立ち上げに携わることになりました。その後すぐにリーマンショックが起こってしまって、色々と大変だったんですけど、3年半~4年ぐらい転職支援をしていました。
転職支援の仕事に取り組む中で、求職者の方に対して「もう手遅れだな」と思うことがいっぱいあったんです。もともと転職する必要のないキャリアを最初に選んでしまっている方が多いなと思って。
転職相談って入社3年目以内の方がめっちゃ多くて。なんなら入って数か月で相談に来る方もいます。そういう方々を深掘りしていくと、大学時代に自己分析や業界分析をしっかり出来ていなかったり、そもそも就職活動をしっかりやってなかったとか、そもそも大学選びを間違っていたのではないか、というところに辿り着くんです。
次はそういうところを根本から変える仕組みづくりをしたいなと思ったんです。やっぱり教育のところだなと。特に若年の方の教育を変えたいと思うようになって。大学教育をやってるところに異動願いを出しました。
そのままその異動願いが通って大学事業部に配属されるんですが、そこは半年ほどで終わりまして。そこから大阪府のアウトソーシングでプロジェクトマネージャーみたいなことをやりました。
立ち上げや転職支援、教育・公共事業の仕事をしてみて、自分は仕組みづくりや裏方の仕事、相手の良さを引き出したりする部分に喜びを感じるんだということを知りましたね。


外国人材への挑戦


ここまでの話の中で田村さんの口から"外国"という言葉がまだ出てきていない。一体いつから今の事業と直接的に繋がるきっかけがあったのか。かつて民主党政権が実現した"週末高速道路1,000円"がきっかけとなったようだ。

仕事に打ち込む反面、プライベートでは日本全国各地を旅行ばかりしていました。ちょうど民主党政権が"週末高速道路1,000円"というありがたい公約を実現してくれたり、LCCが増えてきた時期だったんです。それを使って日本を回り尽くしたら、次は海外に行ってみようとなりました。そしたらその海外のインパクトが自分的にはすごく大きくて。
最初は台湾から始まって、その後は東南アジア。半年ぐらい毎月海外旅行をしていました。現地に行ってみると、正直その時の日本には感じられないような勢いを感じました。成長している雰囲気もビシビシと伝わってきましたが、その反面解決できていないことや不自由なことがたくさんあったのも事実です。
そこでふと「解決できていないことや不自由なことは、日本のサービスやノウハウで解決できるんじゃないか」と思いました。海外旅行を通じて、日本のことを好きなヒトは現地にたくさんいることがわかったので、そのヒトたちと日本をつなげることで現地の発展にもつなげられるし、日本国内の停滞感も海外の事業を増やすことで成長に変えられるんじゃないかと思ったんです。
インドのホテル経営者と(笑っているがお腹は壊している)
ベトナム、ダナンはバイクだらけ
ミャンマーの駅のホーム


転職支援、大学事業、公共事業等様々な立ち上げを経験してきた田村さんが次のフィールドに選んだのは外国人材の採用。インテリジェンスで、1年間外国人材領域の立ち上げに携わった後、社団法人に転職することとなった。

当時は外国人材領域に関する事業に投資していくような雰囲気がなくて。それなら自分でやるしかないと思いました。ただ外国人材領域はマーケットが小さくて、携わるヒトが少ない。外国の方は選挙権を持ってないですからね。
そのヒトたちに対して何かしようと国がやることはないだろうなと思ってましたが、自分としてはそのヒトたちをどう生かすかによって、日本の将来は相当変わるなと感覚的に持ってましたね。
2016年から"日本国際化推進協会"という社団法人に転職するんですが、その社団法人は世界各国にいる留学生と言われる、もしくは言われていた方々のネットワークを作り日本の国際化を図ろうという目的を掲げていました。
今でこそ日本に留学生っていっぱい来てますけど、昔は日本に留学に来る人って優秀層とか富裕層が多かったんです。サムスンの歴代の創業一族やアウンサンスーチーさんも日本に留学してましたからね。
各国に優秀なヒトがいるのに、日本はそのヒトたちのネットワーク化をあまり進められてなくて。そこのネットワーク化を図ることによって、日本の発展や外交に生かそうというような感じです。そこは自分もやろうと思っていたので、方向性が同じその社団法人に所属しました。

外国人留学生のリサーチを中心に社団法人の事務局長に就任した田村さんだったが、より自身のやりたいことを追求するために会社を立ち上げる。それにしても「これがしたい!」と思ったらそれを実現していく田村さんの行動力には脱帽する。

実際色々とやってみると、簡単に国を動かしたり海外の政府を動かしたりっていうのは中々うまくいかないんですね。時間がかかるんです。なので自分で出来ることは自分の会社でやろうと思いまして。
政府機関もそうですけど、日本企業の外国人材に対する考え方・受け入れ方が変わらないと留学生のネットワーク化や外国人材の流動化は図れないと思ったので、法人向けの外国人材に特化したサービスを開発しようと、自分の会社を作って色々やり始めてるという最中です。

外国人材向けキャリアセミナー


起業後、外国人材の採用支援や育成・リサーチやマーケティング・新規事業開発支援等多岐にわたる事業を展開する田村さん。外国人労働者に対する日本の企業の考え方・受け入れ方とは。

外国人材のことを把握していない日本企業がほとんどかと思います。そもそも接点ないですしね。報道されることも感情的なニュースが多いじゃないですか。それを労働問題や犯罪につなげるニュースが多いから、純粋な外国人のいいところや成果って出てこない感じになっていますね。
ニュースとかで取り上げられる技能実習とかってあるじゃないですか。本来"日本で学んだ技能を母国に持って帰ってそれを生かしましょう"なんですけど、実態としてはただの低賃金労働におさまっていて。
これは海外に送り出す方もビジネス化してしまってるから、日本だけの問題ではないんですよ。海外にもブローカーや利権みたいなものが関わっていて。現実は中々難しいです。
僕が考える、あるべき外国人材に対する考え方や受け入れ方っていうのは"そのヒトが持っている個性を生かす"なんです。その外国人材が知っている母国のネットワークだとか、商習慣を学ばせてもらいながら、戦略的にそのヒトを生かせるような仕組みを作ることだと思っていて。
その一番の成功例が新潟の岩塚製菓という会社なんです。新潟県長岡市の米菓の会社。その会社はある日突然訪れた中国人・台湾人の留学生を受け入れて、そのヒトたちに技術指導をしました。そのヒトたちが母国に帰りますってなった時に同じようなお菓子を作りたいですっていう話になったそうで。
そこで岩塚製菓は技術提供と資本出資をしますということになったんです。そこが"旺旺(ワンワン)"という会社で今中国で一番大きなお菓子メーカーになってるんですよ。
岩塚製菓はそこに出資してるから配当金があるんですけど、1年間の配当金は20億を超えています。このような相互の成功モデルをもっと増やすべきではないかと思ってるんです。単なる一労働力として外国人を日本人化させるような政策とか戦略を考えていたら、これは実現できないと思っています。こういうケースを増やしていきたいので、社名を"ウィズワールド"にしました。世界のヒトと一緒にという意味で。
(株)With Worldのミッション


日本の未来へのチャレンジ


研修で学んだことを母国で生かそうという積み重ねの考え方、いわゆる"キャリア"という概念に対する理解はアジア圏においてまだまだ進んでいないという。理想と現実のギャップ。田村さんが取り組んでいる事業は文化を変えるほどのチャレンジであると感じた。

そう、考え方を変えていくっていう長い闘いですよね。笑。今回のコロナの水際対策でもそうですけど、基本的には外国人支援ってすごい叩かれるんです。まぁ確かにわかるんですけど、外国人といっても色んな国の色んな人柄の方がいるわけで。
全ての外国人がいいとは言わないけど、ちゃんと戦略的に受け入れることが出来れば、日本を発展させることが出来るし、日本人には出来ない経済効果を生むことが出来るのは間違いないと思っています。でもそんなことすら発信する人がなかなかいないので"何とか自分が"という想いを持っています。
今新たな取り組みで、外国人起業家を支援しようとしています。外国人起業家になるような人材を増やすことで、日本の企業が持ってるリソースをその人に預けながら海外展開をしていくのが狙いとなっています。
何はともあれ長い闘いになりますよ。すぐに終わらない。笑。今までの社会人生活の中で一番難しい仕事。外国人をしっかりと受け入れて、日本を好きになってくれる、恩を持ってくれるヒトたちを1人でも増やすことが出来たらいいですね。

最後にサラリーマン時代から様々な事業を経験してきた田村さんに、仕事や人生を通じて意識してきたことを聞いてみた。

意識していることは2つあって。1つは学生時代から意識している"攻めながら楽しもう"ですね。待ちの姿勢じゃなくて自分から仕掛けていくというか。やったら大変なこともいっぱいあるんだけど、出来るだけ楽しみながらチャレンジする。浪人時代の経験から、しんどいこととか出来ないことは、その時出来ないだけであって"正しい方法"を知って、鍛錬をしたら出来るようになると思っています。
"正しい方法"はヒトが歩んできた過去の歴史から学べると思っています。不確実性の高い世の中だとは思うんですけど、過去の歴史をインプットすることで、推測や仮説が立てやすくなるので、それをもとに行動して検証をして進めていければ、自ずと自分や周りにとっての"正しい方法"が見つかると信じています。
もう1つは自分たちよりも後ろの世代が「なんか日本っていいな」って思ってもらえるような行動や仕事をするっていうことですかね。「昔はよかった」にならないようにしようと思っています。そういう社会を作れるようなことに今後もずっと関われたらなと。外国人材以外のことにもどんどんチャレンジしていきたいし、そこの想いはずっと変わらないと思います。



◯△□ ◯△□ ◯△□



編集後記


課題があるのはわかっているけど、その課題が得体の知れないモノであればあるほど、それに向き合いたくないのが本音。日本における外国人材の流動化なんて最たる例だ。

今回のインタビューを通じて、そこに真正面から向きあう田村さんの凄みを感じた。あらゆる立ち上げに抜擢されてきた田村さんは、そのままインテリジェンスに在籍していれば間違いなく出世の道を歩んだはず。その道を急遽変更して社会人生活の中で一番難しい仕事に向き合う姿勢は「なんか日本っていいな」と後世のヒトに想ってもらうための覚悟を感じる。

外国人起業家支援もリリースするタイミングや出し方もちゃんと考えて日本社会とコミュニケーションをとらないと、叩かれるだろうなと思ってます。そういうのも含めて、前に出たくないんですよ僕は。そこは昔から変わらない。笑。
でも外国人材を広めるにあたっていつか前に出なきゃいけない時があると思ってて。それがいつどうなるかわからないから、SNSでは自分の家族のことは出さないって決めてます。その辺の覚悟もありますよ。






今私が所属している会社にも外国人材が数名在籍している。

田村さんの話を聞く前までは、日本における外国人材について考える機会はなかったのだが、インタビューの後にその同僚が置かれている立場を改めて考えてみると、田村さんの言う"単なる一労働力として外国人を日本人化させる"立場になってしまっているかもしれないと感じた。

一概にそれが悪いことだとは思わないが、私はそのヒトたちの本音を知ろうとしているのだろうか・・・残念ながら知ろうとはしていない。向き合うのが怖い。

ただそれを知る、知らないでは同じ組織で働く上での取り組み方が変わる。そして得体の知れないモノを少しずつ理解していく手掛かりとなる。まずは今回田村さんにインタビューをさせていただいたように外国人を"知る"ことから始めればいい。

今まで外国人にインタビューをしようと思うことはなかったが、今後は外国人へのインタビューを通じて、日本と外国について更に知見を深め、皆さんに知ってもらう機会を少しでも多く作ろうと思う。田村さんの覚悟に尊敬の念を込めて。

たむさん、お身体だけはご自愛くださいね。


<株式会社With World ホームページ>

https://www.with-world.com/
<田村さん出版の本 留学生用の就筆記試験の教科書>

https://www.amazon.co.jp/-/en/%E7%94%B0%E6%9D%91-%E4%B8%80%E4%B9%9F/dp/482072844X/ref=sr_1_1?crid=35N18GUPTTL4Q&keywords=%E7%95%99%E5%AD%A6%E7%94%9F%E7%AD%86%E8%A8%98%E8%A9%A6%E9%A8%93&qid=1653316335&sprefix=%E7%95%99%E5%AD%A6%E7%94%9F%E7%94%A8+%E7%AD%86%E8%A8%98%E8%A9%A6%E9%A8%93%2Caps%2C250&sr=8-1

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