見出し画像

Belleville Camp21 d'été 参加覚書



7月14日(水)から19日(日)までの4泊5日、三重県に拠点を構える第七劇場が主催する「Belleville Camp21 d'été」に参加してきた。
このキャンプは、演出家が俳優と作品を創る上でどういった手法や伝え方が可能なのかを探る、演出家を対象としたものだった。
京都や東京から僕を含めて4人の演出家が集まり、第七劇場の俳優の方々や演出家の方と一緒に様々なワークを通してその手法や伝え方を検証していった。

とりあえずここでは、具体的に学んだことは置いておいて、5日間のワークを通じて僕が思ったことを中心に備忘録も兼ねて書き綴る。


そもそも僕がこのキャンプに行こうと決めたのは、自分の演出としての手札の少なさを感じていたからだ。
それは経験的な浅さもあるし、作品を創るという過程を見てきた数も圧倒的に少ないと思っている。
だから今回のキャンプでは、僕の他に3人の若手演出家の方々のやり方も知れることは絶対に良い効果を得ると思ったし、今の環境ではここでしか学べないことがあると思ったからだ。

実際に行ってみると、想像していた以上に自分の意識の中で革命が起こったように感じる。


1つ目、
ファシリテーターをしていただいていた、第七劇場の鳴海さんの思考方法がある。
それは「論理的に言語化して思考する」ということだった。
それが大切なことは分かっていたことではあるが、自分の中には存在していない感覚だった。
その感覚を経験出来たことはとても大きい。
一つの事象をさらに細分化して考えることは、物事を細かく捉えると同時に自分の考えに懐疑的な視点を与えてくれる。
ワークを通して、様々な視点からこうしたら良いのではと言われたが、今後の自分にとって第一の課題は、その「細分化して懐疑的な視点をもつ」ということであるように感じる。
そのためには、自分の考えや外の世界にもっと疑いの視点を持つべきだと思うし、それを整理する時間も必要になってくると思う。
反射的に動くということはある程度出来ていると言われたから、逆に熟考して深く考える癖をつける必要がある。
反射的に継続して考え続けると、熟考ということになる…のだろうか。
そのためにも、もっと演劇を見ないといけないし、本(それも誰かの評論であるとか自分とは別の視点で深く考えているもの)も映画も見ないといけない。


2つ目
自由とは制限の中でこそ自由になれるということ。
舞台に立っている俳優の存在が輝けれるように、出来るだけ俳優の考えなどを取り入れようと試みていたが、僕のやり方は逆に困惑を招いていたことが分かった。
ある程度の制限を与えないと、自由の幅が広すぎて逆にその自由を求める考えるが暴力のような形になっていた。
それはシーンをやってもらった後の質問の仕方にも言えることで、「どうだった?」と聞くことは、何を聞かれているのか分からず、それも暴力であった。

俳優としては、その制限の中で自分の感覚というものを提示して欲しいし、演出としては作品全体を通してそれが成立するのか判断することと、俳優の深みを引き出すために的確な制限を与える必要があるのだと思った。
そのためには、具体的な動きの制限よりも、俳優の存在のあり方、置かれている状況を具体的に細かく整える必要がある。
それは、(個人的な好みでは)テキストを中心に稽古の前にある程度案を考えておかなれければいけないし、それが成立するのか見て判断する。そしてその現場で起こることにも柔軟に受け入れ整える必要があるように感じる。
そのためには、僕が自分の考えや感覚に固執しないようにしなければいけないし、それが俳優の自由さを保つのだと思う。

まとめると、
稽古に臨む前、俳優へ話すノートは具体的な指針をもつ内容の方が俳優が取り組みやすい。
そしてそのシーンを見る時は、フラットな姿勢でシーンを細かく見る必要があると学んだ。
自分の癖的に、自分の中の正解を追うということをしがちだと感じている。しかしもっと主観的にわがままにあえて遠回りするような気持ちで作品作りには挑まなければならないと強く感じた。

そしてここで出会った同世代の演出家に人たちにも刺激を受けた。
当然だけど、自分よりもはるかに経験があるし、はるかに果敢に挑戦している。
そのことには純粋に尊敬しているし、互いに頑張っていきたいと思う反面、自分の環境にも他の人とも違う良さがあると感じたし、焦らず自分のペースで作品創りをしていきたいと思う。

粛々と、気負わず、
「観ている人の心が浄化できる」ような
「綺麗な景色を見て気持ちが洗練される」ような
そんな作品を創っていきたいなと思う所存なりけり。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?