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afterコロナをディストピアにしない 権利制限はあくまで異常事態の自覚を

新型コロナウイルスに関する文書をnoteで、思いつくままに書いてきた。これからも書くだろう。甘いというか、こうあってほしいという願いを込めての内容になっているし、これからもそのスタンスは変わらない。それは意識しながらのことだ。というのも、実は怖がっているからだ。できるだけ希望を見出したいからだ。すでに同様の指摘は様々になされているところだが、afterコロナ社会で一番恐れ、また最も考えられるのが、実は市民的諸権利をいとも簡単に放棄することに慣らされてしまった大衆が構築する社会の姿だからだ。無意識・無自覚の奴隷とでもいう状態。そうなってほしくないからこそ、人々の連帯、共感など別の視点や考え方、道があってほしいと、希望を見出したいと思っているのだ。

制限に慣れたくない

私は、社会からろくな支援もない中で奮闘している医療関係者にはただただ深い感謝と敬意を抱いているし、心から頑張ってほしいし、自分にできることは応援したいと思っている。生命のためには感染拡大防止が現状では最優先であることも理解している。一方、それはそれとして、いま出現している状況はやはり冷静に見つめなければならないとも考えている。

緊急事態宣言にせよロックダウンにせよ、これまで人類が獲得してきた市民的諸権利を大きく損なうものであることはいうまでもない。移動の自由、集会の自由、思想信条の自由、職業選択の自由…。「いまは非常時だから」という理由でこれらはいとも簡単に、大きく制限を受けている。そのことは常に忘れずに自覚していたい。そうでないと、災禍が過ぎ去った後も「これはこうしたものだから」と「慣れ」てしまいかねない。それを当たり前のものとしたくない。

「生命を守る」のオールマイティ性

「いや、あくまで生命を守るための緊急避難措置であり、ごく一時的であることは理解しているから大丈夫」という意見もあるだろう。だが、その言葉の中にこそ危険が潜んでいるように感じる。「生命を守るため」は誰にも反論しようのない価値をもつ。まさに市民的権利の根源とは「生命」そのものだからだ。人は人として生きている限り基本的人権を有する。その考えが根底にあるから、「生命を守る」はオールマイティであり、水戸黄門の印籠的効力を有する(間違っても、生命が大切ではないなどと言いたいのでないことは念のため強調しておく)。

専門家依存社会への警鐘

哲学者のイヴァン・イリイチはかつて『脱病院化社会』で「医原病」という考え方を提起し、人々が専門家への過度な依存をしていく社会に警鐘を鳴らした。いま、その警鐘が耳元に響く。医療制度崩壊を防ぐため(つまり生命を守るため)にならどんな市民的権利の制限や犠牲もいとわない。「高齢者の命をまもるためですから、施設への面会は自粛してください」といわれれば素直に従い、高齢者を施設に孤立させる。クルーズ船でみたように「隔離」も簡単にできる。これらに抵抗もないというか、異議や抵抗などもってのほかで、そんなことをしようものなら、日本流にいえば「非国民」扱いされるのは目に見えている。

健康ユートピアはディストピア

いとも簡単に市民的諸権利を制限できることが、今回のコロナ禍ではっきりした。私が政治家ならこの状況を利用するだろう。つまり、未知の病気や危機から生命を守るということを掲げれば、かなり自在に「いけて」しまうのだ。イリイチが指摘したような専門家への依存状況をうまく利用し、生命の危機・危険を喧伝し、「出現」させれば、多くの市民が従う状況がつくりだせる。健康でいたいという人々の願望を糧にして、市民的諸権利を制限することが可能になる。

いま現実になっている、人の動きを把握するためのビッグデータ活用を一歩進めて、各人の行動や健康状態を国家が逐一把握するシステムを作ることだってできるだろう。いま、非正規雇用者の解雇など社会的弱者にしわ寄せがいってその生存さえも脅かしていることを「健康な社会を維持するためだから」と私たちが是として傍観してしまえば、それは誰に対しても、明日のわが身にも「適用」可能なこととみなされるだろう。その時、私たちは諸権利を有する市民ではなく、無自覚な奴隷状態に置かれた大衆の1つのパーツに過ぎなくなる。社会システムが潤滑に駆動するためにパーツが「不良品」ならば、交換や廃棄だってされてしまうかもしれない。生命を守るためのことが、諸権利を有した市民として生きる生を棄損することに直結しかねない。「健康ユートピア」はそのままディストピアに通じていく。

為政者には日々、自覚させ続けよう

繰り返すが、いまの状態があくまでも緊急避難的なものであることは絶対に忘れてはならない。為政者には、市民的諸権利の制限にはとてつもない痛みと責任を伴うものであることを日々、自覚させ続けなければならない。経済的困窮や社会生活の維持が難しくなった人たちへの支援は社会として絶対に必要なものだと、と訴え続けなければならない。ドイツのメルケル首相が、自らの東ドイツでの暮らし体験をもとに市民的諸権利の制約には自制的でなければならないことを語り、国民にもその自覚を促したことはすべての国のリーダーに求められる態度だ。いまの米国や日本の政治状況をみていると、実に不幸なタイミングでこのような事態になったと深く嘆息せざるをえないのだが。そんな自覚からは最も遠くにいて、むしろ人と人、国と国を分断させる方向に扇動する政治家がトップを担っているのだから。

せめて連帯や共感を再認識したい

せめて市民として、冷静な眼差しと他者を思う共感力を持ち続けたいと思う。たとえ甘い、希望的にすぎるといわれても、社会が孤立した「私」の集合体ではなく「われわれ」という共感、関係性で成立していることを災禍を機に再認識したいと思う。ウイルスはだれにも「平等」に襲いかかる。「死」は万人に全く平等に訪れる。明日は自分かもしれないという認識は、他者への想像力や共感の道を開く可能性を生むと思っているからだ。多くの生命を失い、市民的諸権利の制限までした代償として、人としての連帯や共感を再認識し、人が人として市民的諸権利を損なわれることなく生きられる社会の方向に向かっていくことを願ってやまない。だからたとえ細々とでも、語り続けたいと思う。

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