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「正しさ・正義」の危うさ感じる ALS患者嘱託殺人事件

「ALS女性患者安楽死」事件と呼ばれるようになるのだろうか。京都のALS患者を、宮城と東京の医師2人が殺害した嘱託殺人事件のことだ。この事件には医師の傲慢さと共に、やり方もあまりに乱暴な印象を受ける。殺されたのがALS患者で、殺害したのが医師であるというだけで、SNS上での自殺幇助依頼に対して見も知らぬ他人が報酬と引き換えに引き受けて実行した、これまでにもあった殺人事件と本質はなんら変わらないように思う。だが、安楽死の問題としてメディアでは論じられるだろう。安楽死に関して思うところは何度か書いているが、今回の件はむしろ、「正しさ」とか「正義」といったものの危うさととらえた方がいいいのではないかと感じる。

安楽死の制度化には慎重のうえにも慎重であるべきという私自身の考えは変わっていない。ただ私は「自分が絶対に正しい。正義だ」などとは思っていない。だから、安楽死それ自体に対しては、絶対反対とはいわないし、賛成だともいわない。自死や自殺を絶対に許されないとしてしまうことで、逆に生きていけないと感じてしまう人がいる。「いざとなればいつでも死ねる」と考えることが、逆に生きること、希望につながる場合がある。安楽死も同じように、いざとなれば安楽死があるから生きる希望を持てるという患者だっているかもしれない。いのちに関わる選択は、単純な白か黒かの問題ではありえない。白と黒の「あわい」にある、微妙で繊細な、慎重の上にも慎重な思考と態度が必要なことがらだと考える。

だが、今回、報道から読み取れる医師の言動は、自分のしていることは「正しい。正義だ」と考えているように見受けられる。いや、正確にいえば、この医師のあまりに乱暴な議論の建て方や言葉遣いからは、そこまで深く悩み、考え抜いた末の行動だとは感じられない部分があり、そこに絶望的なまでの粗雑さ、他者のいのちをどうとでもできる、選別しうると考える医師の傲慢さを感じてしまうのが正直なところではあるのだが。

「正しさ」の論争は何も生み出さない。お互いに正義を主張する者同士が対峙した場合、最終的には相手の全面的降伏・屈服か、相手の殲滅以外に自分の正義を証明するものがないからだ。それは自分の神こそが正しいと信じた者同士の宗教間の争いをみれば明らかだろう。絶対の正義は、妥協や共存の余地を残さない。また、「自分が正しい、正義を体現している」と思いこめば、どんな残虐な行為さえも疑問を抱くことなく行えてしまう。今回の容疑者の医師も、最大の職業倫理である「いのちを救う」ことさえ安易に乗り越えて憚らず、疑問さえまったく抱いていないようにみえる。「正しさ」は危うい。

今回の事件で、安楽死の議論が活発になるかもしれない(医師の粗雑さをみるとそうはならない気がするが)。そのとき、「正しさ」の争いにならないことを切に願う。そうではなく、もしも安楽死の制度化が本当に必要なのだとしたら(「滑り坂」の問題もあり、慎重の上にも慎重であるべきだと私は思っているが)、どのような制度を設計するか、制度がたとえあったとしてもできれば使わないで済むような、生きることを徹底的に社会で支えるためにどうすればいいのか、患者の苦しみをどう緩和していけるのか、といった方向で議論してほしいと思う。制度が目的なのではなく、いのちがいのちとして尊重され、生きていてよかったと思えるような社会にするにはどうすればよいのかという視点こそが大切だと考える。

一人一人のいのちが、代替のきかない、唯一無二の大切なものであるという当たり前のことを大前提に、一人一人の死生観には違いがあって当然であるという前提に立ちたい。いのちにかかわることがらに対し、「これこそが正しい」と軽々に「解」を出さないこと、ようやくたどり着いた自分なりの解を他者に無理やり押し付けないこと。他者のいのちや死生観への敬意、尊重がなければ、特定の解を押し付けることにばかり力をいれてしまえば、つまり「正しさ」を振りかざせば、優生思想のように他者のいのちを選別するおぞましい社会に滑り落ちてしまうだろう。

いのちの「あわい」をみつめてほしい。それがせめても、殺された女性への供養になるのではないか。女性のご冥福を祈る。

#安楽死 #ALS女性患者安楽死 #死 #エンディング #優生思想


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