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withコロナ 関係性の中に生きる自分を意識する

新型コロナウイルスのパンデミックで、はっきりとわかったことの一つは、私は一人では生きられないという実に当たり前のことだった。医療、商品の生産・流通、公共交通機関、宅配、警察・消防…。そうした「社会」がなければ、社会を形成している直接は顔も知らない「みえない他者」がいなければ、自分一人では生きていけない。要は関係性の中で生きているということをあらためて認識した。そうした「みえない他者」への配慮、慮りの行動といってよいと思う「自分が感染源にならないように」という種々の行動は、この社会がまだ捨てたものではないという希望だと感じている。また、「死者」の存在もまたそうした「みえない他者」の中に含まれる、関係性の中にあることを意識する機会になっているように思う。

関係性の濃淡

図 - コピー

他者と自分との関係性をきわめて単純化すれば、上の図のように「自分・私」を中心点として、関係性の濃淡がつく。濃い部分には家族や親友らが該当し、「私」との境界はないといってもいいかもしれない。周辺のグラデーションはもう少し関係性が薄い友人や同僚らといった、自分のかかわる「コミュニティ」のなかの人たちが該当するだろう。その周りの白い部分は冒頭に記した生産や流通を担う人たちなど、自分の生活を知らないところで支えてくれている「みえない他者」だ。グローバル時代のいま、この部分は世界中の人たちといってもいいかもしれない。白の中にも自分には直接無関係だが、「知っている」人、たとえば志村けんさんのような有名人などは色が着くのかもしれない。「beforeコロナ」(BC)では、主には色の濃い部分との関係性にしか目が向かない状況だった。また、いまの時代、自分にとって大切なものは何かを考えるなかで、色の濃い部分との関係性はより強く意識されているといえるだろう。

「みえない他者」への連帯意識

一方で、「afterコロナ」(AC)ではこの周辺のグラデーションや「みえない他者」の存在もまた強く意識せざるを得なくなった。冒頭に記したごく当たり前の気づきだけではない。そこから感染してしまうのではないか、という他者への恐怖も無論あるだろうが、意外なほど「自分が感染源になってしまうのではないか」という他者への心配や配慮がみられることがその一つの証左だ。「家にいよう みんなのために」がスローガンとして共有されているのだ。

もちろん、全員が全員そうした配慮の中に生きているのでないことは言うまでもない。感染者はもとより、医療従事者や宅配ドライバーなど、この社会を支えようと奮闘している人たちにさえ差別の眼差しを向ける人たちがいる。多くの人たちが苦しんでいるさなかに、平然と自宅でくつろぐ姿をさらして恥じることのないどこかのリーダーのように、決定的に他者への想像力・共感力を欠いた人はいる。だが、一方というか、大多数は間違いなく他者のことを思い、行動している。終わりの見えない自粛や外出制限にこれだけ多くの人たちが従っているのは、同じ苦境を共に過ごす者としての「みえない他者」への眼差し、いわば人としての「連帯」の感覚が基底にあるからだと考える。

死者の語り

この関係性の濃淡は、「死」という側面で考えれば、哲学者のウラジーミル・ジャンケレヴィッチが指摘した「死の人称」となる。自分の死である「一人称の死」、近しい人の「二人称の死」、自分との関係性を認識できない人たちの「三人称の死」。二人称の中には、自分自身の一部が死を迎えたかのような関係性もあれば、三人称の中にも志村けんさんのようにインパクトをもって受け止める死もあるので、濃淡が出る。

「死者の眼差しを意識する」として記したことがあるが、今回のパンデミックで否応なく「一人称の死」を意識しなければならなくなった。死と隣り合わせの生を認識しなければならなくなった(「WITH&AFTERコロナ時代 『引き算』の生き方と『祈り』こそ』」参照)。そんないまだからこそ、死者の存在を忘れたくないと思うし、忘れることなどできないと思うのだ。死者の眼差しを意識する。二人称の死だけではなく、三人称の死もまた、一人一人の名前も顔も知らないまま感染して亡くなった多くの人たちは、BCの時代よりもほんのわずかかもしれないが、私たちにより近い存在として受け止められているように思う。

再び志村けんさんを例にすれば、遺族は遺体との対面もできず、火葬場での最後のお別れもできないまま遺骨を引き取った。その遺族が、記者たちに囲まれて語ったことは「コロナを他人事と思わないで」ということだった。志村さんは遺族を通して、いまを生きる私たちに語っていると考えることはできないか。積みあがる死に、私たちができるせめてものことは、三人称も含めた死者の声に、時に静かに耳を傾けることなのではないだろうか。それがせめてもの鎮魂、弔いにつながるものであるように祈りながら。

死者とともに「いる」

以前「縦の糸と横の糸 結節点としてのわたし」で、自分という存在が時間軸と現在を生きる人たちとの関係性の中での存在であると記したが、コロナ禍であらためて「縦」のひとつとして死者との関係性を再認識している。死をいまの生と隣り合わせのものとして感じる、感じざるを得ないからこその感覚だと思っている。

死者と私たちは関係を結んでいるし、結ぶことができ、それは単に縦軸として自分の中に凝縮しているものなのではなく、横軸つまり「いま」を同時に「いる」存在としてとらえることも可能なのではないか(決してカルト的なことを言いたいのではない。以下、このことは強調しておく)。図でいえば、楕円の外側と内側を自由に行き来する、つまり自分が必要と思うときには「そこにいる」し、抽象的だが「声を聴く」ときには濃い色の中に、ときには自分自身とも同体化するものとして「いる」。そうとらえることはできないだろうか。私たちは死者とともに生きている、と。

2001年から15年にわたり4回実施された、終末期患者と遺族の関係性に関する調査(科研費も使って医師と社会学者が共同して行った調査も含む大規模調査は計1742人もの遺族から証言を得た)から「お迎え」現象についての分析結果をまとめた『「お迎え」体験』(宝島新書、河原正典著)がこのほど出版された。この調査では「お迎え」を<終末期患者が自ら死に臨んで、すでに亡くなっている人物や、通常見ることのできない事物を見る類の経験>と定義。4割以上の患者が亡くなる1カ月前までに「お迎え」を経験していることや、見えるはずのない故人と「再会」する体験などがあることを明らかにしている(くどいが、決してカルト的、怪しげな調査ではなく、社会学的手法でアンケートしている。もともとは臨床宗教師を生み出すきっかけをつくった在宅医療の先駆者、故・岡部健さんが手がけた調査だ)。在宅医である河田氏はエピローグにこう記している。

「お迎え」体験は(中略)その背後に潜む、看取られる側と看取る側との死してなお続く想いの交流に、重要な意味が隠されているのだと私は思っています。

死者と生者は共にいる、関係性の中にある。コロナ禍は私たちからいろいろなものを奪った。だが一方、そんな気付きを与えているように思う。ACにこの気づきをどう生かしていくか。それが私たちに突き付けられている。

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