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お坊さんとCSR 社会課題解決とは

お寺・お坊さんの活動とCSR(corporate social responsibility:企業の社会的責任)って類似点がある。いささか乱暴だが、そんなふうに思う機会があった。私は以前、CSR部門で働いていた。そのとき、CSRとは何かを考える中で、自分なりに納得した考え方がある。

CSRとは「反応する能力」
CSRとは、自社にどんなリソースがあり、強みが何かをみつめ、仕事を再定義すること。そして、そのリソースを活かして社会課題解決にどう寄与できるかを考え、行動すること。立教大学の中村陽一教授が指摘するようにCSRの「R(responsibility)」とは「response+ability」。つまり、反応する能力のことだ。突き詰めると、CSRとは社会課題に気づき、反応することになる。課題解決のために自社が生み出すサービスやモノによって価値を創造して社会から必要とされる存在になり、利益につなげていく。利益が生まれれば持続可能な活動になる。ビジネスとはニーズに応える、つまり、なんらかのお困りごとに対応するサービスやモノを提供することで成立する。なにも社会的企業などといわずとも、企業とは本来そうしたお困りごとなど、社会のニーズに応えることで利益を生み出す組織だ。CSRとはまさに本業が軸になる。そんな考え方だ。

お坊さんに大切なのは人々の苦に向き合うこと
仏教は、人々の「苦」に向き合うものだと私は認識している。苦しむ人、弱い立場の人に寄り添うことは、お寺・お坊さんの大切な役割だろう。そんな人たちの存在に気づき、共感し、その人を救うために動けること。それはお坊さんにとって、とても大切な資質なのではないだろうか。そもそも、苦とは何かや、苦しむ人の所在がわからずに布教などできるわけもない。苦しむ人こそが、仏の教えを一番必要としている人なのだから。お坊さんの「本業」である(はずの)布教は、困っている人、弱者を救うことと密接不可分なのだ。困っている人、弱者とは、なんらかの課題を抱えている人、課題に伴う苦しみを体現している人と言い換えてもいい。社会的存在である人間が直面する課題は、すべからくなんらかの意味で社会的、普遍的な課題と深いかかわりがある。だとすれば、お坊さんが社会課題に向き合うことは、まさに本業と密接不可分なのだと言い換えられる。

社会課題とは自らが発見するもの
本業で社会課題解決に寄与する。これは、まさにCSRと通じる。さきほどCSRのRは、反応する能力だと記した。お坊さんも社会課題に気づき、それに反応する能力が問われるのだ。では、お寺、お坊さんにとってのリソースとはなにか? 仏さまの教えと、寺という場・空間、協力してくれる信者さんたちがまず思い浮かぶ。お坊さんによっては様々な人的ネットワークが加わることがあるかもしれないし、深い学識がリソースになる場合もあるだろう。こうしたリソースを活かし、自身の気づいた社会課題に向き合うことが、お坊さんには求められていると考える(なお、蛇足ながら社会課題とは与えられるものではない。自ら発見するものだということを強調しておく。与えられるものだとすれば、それは国家など強者にとって都合のよい課題になってしまう危険性があるからだ。メディアを通じて喧伝されることがすべて社会課題なのではない。特に宗教者の場合、弱者に寄り添うという軸がブレないことが大切だ。この議論は別としたい)。

企業のCSRとの大きな違いは、営利目的の活動ではなく、宗教であることだろう。営利ではなく、仏の教えを信じる人を増やすことがミッションだ。慈悲の心をもち、苦しむ人を放って置けない。そんな信心を持つ人たちを育むことが最も大切な価値のはずだ。布教は社会貢献活動に通じている。また、多くのお寺では本業として位置付けられるものに、葬儀と法事といった死者儀礼や先祖祭祀があるだろう。このことの社会的な意味を問うことも忘れてはならない。

「勘違い僧侶」にはならないで
ここで注意しなければならないことがある。CSRの議論では「じゃあ本業さえしてればいいのだ。なぜならそれが社会貢献なのだから」と誤解が生じることがあるのだが、お坊さんも同じように考える人がいるに違いない。お寺にこもって祈り、檀家の法事や葬儀をして、時々法話して「和尚様、有難いお話です」と持ち上げられていれば、立派な社会貢献をしているのだ、と。

だが、先述したようにCSRは仕事の再定義だ。本業のもつ意義を認識し、それに相応しい内実を伴った仕事になっているのか。それとも、単に以前から続いてきた仕事だからこなしているだけなのか。時代に応じて、必要な手法や対象が変わっていないか。そんなことを常にチェックすることが求められる。そして、現状では足らない部分、本当なら寄与できる部分を放置していないかをみつめ、そこを埋めるための試行錯誤を繰り返す。それが受け入れられれればビジネスにもなる。それがCSRだ。営利が目的だから、市場がチェック機能を果たしうる。

お坊さんにはこのチェック機能を果たすものがない。いや、なかった。檀家制度と「墓質」で質や成果を問われるとこなく、世襲までできた。嘘でも「和尚様、ありがたや」といわれ、若くても上座に座らされる。それで当たり前だと勘違いする僧侶でも生きてこられた。だが、さすがに寺院消滅時代に入り、これからはお寺の淘汰が否応なく進む。お坊さんは「本業」の再定義をして、やり方や質を自ら問わなければならなくなる。

自身のお勤めには…
自身のお勤めに、弱者への思いや寄り添いがあるか。仏様の教えを広めるというミッションが意識されているか。身内の死という最も辛い時間を過ごす遺族に対する思いやり、寄り添い、ケアがあるか。お義理で読経、念仏するだけではならロボットでも、いやCDでもできる。僧侶である必要など全くない。葬儀で寄り添い、ケアすることで立ち直りを支えることはお坊さんの大切な社会貢献だと私は思う。自坊のリソースを使い、もしかしたらたとえばグリーフケアの集いを開くことや、檀家以外の社会の人たち向けに自死遺族を支えるといった活動に広がっていくことがあるかもしれない。悩みを抱え、苦に向き合う人に自由に寺に足を運んでもらえるような環境づくりだって大切な仕事かもしれない。

つまるところ、自身がみつめる社会課題とは何かを考え、自分が日頃していることはその解決のためにどういう意味があるかをみつめる視点が大切だ。その課題を考えることや、視点の参考として「だれも取り残さない」として貧困・飢餓・不平等の解消といった17のゴールを掲げる国連のSDGsが活用できるはずだ。長くなった。ここまでにしておく。

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