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「死のタブー」 なにが問題なの?

「忌引き中出勤に違和感」で触れた「死のタブー」について、担当している大学院の授業で話題にしたさい、こんな質問があった。「タブーがあるとしたら何か問題があるのか?」

話題にせずに済むのなら…
たしかに、死を話題にせずに済むなら、それにこしたことはないのかもしれない。「死にかけている時以外、死を考えるな、と自然は教えている」(モンテーニュ『エセー』)。怖いし、できれば遠ざけておきたいという気持ちは素直だ。「生を充実させるには死を思うことが大切。『メメント・モリ(死を思え)』だよ」なんていわれても、大きなお世話だと感じてしまう。だが、死がタブーのままでは、現実に困ることがあると思う。

多死時代に在宅看取り
日本での年間の死亡者数は2000年には100万人に満たなかったが、いまは130万人強。多死社会を迎え、この数は増え続け、2040年には160万人を超えると予測される。その一方、国は社会保障費抑制のために病床数を減らし、「最期まで住み慣れた地域で」とうたう地域包括ケアシステム構築を目指して在宅看取りを推奨する。現状では約8割の人が病院で亡くなっているが、この割合は将来的に低くなり、在宅で看取られる人が増えていくことは間違いない。

どうすればよいかわからない
リアルな死が身近にないことから、死にゆく人、その近親者らにどのように接したらよいのかわからない、共通言語がない。それが「死のタブー」であると同時に、そのこと自体でますます死のタブーが深まる。そんなことを先の文章で記した。死が病院で管理される時代が長く続き、在宅看取りの文化が失われた。地域コミュニティも家族機能も弱まり、そもそも家族がいない一人暮らしも増えている。そこに在宅看取りが、降りかかってくる。

死にゆく者の孤独
在宅看取りは、病院に管理されていた死が、家族や友人ら関係性の濃い人々の中に戻ってくる可能性を秘めている。否定的なニュアンスで本来はとらえるべきことではないのかもしれない。だが、たとえ関係性の濃い人々であっても、死の話題を共有できない。どう支えてよいかわからない。死にゆく者が自分一人で死を抱え込むしかない。ユダヤ系ドイツ人の社会学者、ノベルト・エリアスがいうところの「死にゆく者の孤独」。それが、死のタブーがもたらすものだろう。

「いつかは自分も」の意識
とはいえ、タブーはなくせるのだろうか。簡単なハウツウなどない。おそらく、自分を含むすべての人も、いつか必ず死を迎えるという事実を直視することしかないだろう。いくらアンチエイジングや健康法を実践しようとも、必ずいつかは訪れる死。その当たり前のことを、当たり前のこととして認識すること。そこからしか死をタブーの檻から解き放つことはできないだろう。「いつかは自分も」という意識こそが他者への共感の源泉となり、共感を育み、死にゆく者を孤独にさせないつながりを生み出す土壌となっていくのではないか。そう考える。

#死 #タブー #在宅看取り #コミュニティ #共感 #病院

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