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「命の選別」発言 優生思想の恐ろしさに対する想像力がない

れいわ新選組・大西つねき氏の発言に驚いた。発言の全文を荻上チキさんが文字起こしまでしてくれたので読んだ。

内容は端的に言えば、高齢者を「死にゆくままにせよ。介護も医療も無駄だから。それが社会のためだから」と言っているようにしか読み取れない。それを政治家になろうとする者が平然と口にする。つまり、政治によって、権力によって社会をつくりたいと考えている人物が、だ。

想像力や共感力の欠如に愕然とする。この発言に賛同する人たちに対しても同様だ。なぜ、そんなに簡単にいのちを切り捨てられるのか。災害時のトリアージでも何でもない日常のなかで「姥捨て」の論理を構築する。それを本気で望んでいるのだろうか。「自己決定」による安楽死以上に恐ろしい、社会的殺人の制度化だ。

この発言から派生した議論の中で出てきているのが、優生思想だ。優生思想の恐ろしさはその範囲が無限に拡大していく点にある。最初は「どうせ生まれて来てもかわいそうなだけだから」から始まり、「どうせ長くは生きられないから」「どうせ認知症だから」「どうせ身体が不自由だから」「どうせ次世代を産み育てないLGBTだから」…。どうせ、どうせと、「どうせ…」の波は次々に浸食先を広げていき、社会的マイノリティや「決める側」にとって不都合な人々へと対象を広げる。大西氏やその発言を支持する人たちは、そのことをどこまで理解しているのだろうか、想像したことがあるのだろうか。

荻上チキさんも以下のように記す。同感だ。

何を優良・改良・有意義とするかは、その都度変わるということ。そして時代を経て、優生思想的表出は、遺伝以外の根拠に基礎付けられ、人々を動員してきた

「優生思想賛成。自分は若く健康で社会の役に立っているのだから」と言っている人に問いたい。あなたはいつまでも若いのですか? 事故にあったり、病気になったりして身体が不自由になったらどうするのですか? あなたの子どもが深刻なダメージを心身に負ったとしたら? よもや、あなたは自分が常に決める立場、安全地帯にいるから大丈夫だなだと根拠もなしに思い込んでいるのではないですか? そもそも他者のいのちを選別し、奪う権利などというものが、いったい何を根拠に、誰によって誰に付与されるものなのでしょうか?

どんな人も寿命までは、「生きたい」と願う限りは、様々な支えによって生き抜くことができる社会こそが望ましいと私は考えている。尊厳ある死などより、生きることこそを大切にする社会であってほしいし、そういう社会にしか尊厳死などもありえないだろうと思っている。

「価値」論に与するのはちょっと危うさも覚えながら記すが、たとえ身体が不自由になっても、認知症になっても、歳をとっても、どんな人でもとにかく「生きたい」と思えば、社会的支援のもとで笑って生きられる。そんな社会であることを自らの生きる姿によって示すことができれば、周囲の人たちは「ああ、この社会はどんな状態でも見捨てずに支えてくれる。安心して老い、暮らしていける素敵な社会なんだ」と信じることができるだろう。それは、とても「価値」ある存在意義だと考える。無駄ないのちなど、ない。

#死 #安楽死 #優生思想 #エンディング #命

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