見出し画像

映画「沈黙-サイレンス」心を永遠に揺らし続けるひとつの問い ”あなたにとって神とは何なのか”

当時劇場で観て、冒頭始まった瞬間からこの映画は歴史に残る名作になるのではと予感した。

自然の音のみが聴こえ、そして静寂の世界へ。

一瞬にして「沈黙」の世界に誘われる。

「主よ あなたは何故 黙ったままなのですか」

この言葉に全てテーマが現れていると思う。

「神の沈黙」というテーマの深み、日本の美を現す映像美、役者陣の演技、全てが素晴らしかった。

個としての自分と共に、日本人としての自分を、深く考えさせる大きなきっかけを与えてくれた。

小学5年生の時読んだ遠藤周作の「沈黙」。朧げながら、宗教について、想いを巡らせたことはあるが、長い間この原作のことは忘れていた。

マーティン・スコセッシ監督は遠藤周作の「沈黙」という原作になぜこだわったのか。

彼自身、直接宗教を題材にした「クンドゥン」や「最後の誘惑」のみならず、「タクシードライバー」や「ミーン・ストリート」といった初期作から「ウルフ・オブ・ウォールストリート」に至るまで破滅と救済を軸に、宗教的観点を映画に取り込んでいる。

「沈黙」にはその彼が生涯追い求めてきた問いがあり、だからこそ、集大成とも言える迫力に満ちている。

そして、なぜ外国人の彼がここまで深い日本文化への造詣に満ちているのか。そこに驚いた。

荒々しい海と不穏な空模様に囲まれた日本の村々は驚くほどに日本人としてしっくりくる映像でメインロケ地は台湾のようだが海外の監督でここまで日本らしさを表現できた監督を私はまだ知らない。

「ラストサムライ」や「硫黄島からの手紙」がいい方で、トンでも作品も多々ある中、この作品は日本特有の雰囲気をリアルに表現していると思う。

それはスコセッシ監督への原作への真摯な想いと日本を描くことの愛情も含まれていると思う。

過剰な音楽もなく静逸な世界観が2時間40分全く飽きさせることなく続いていく。

役者陣がまた素晴らしい演技を魅せている。

ロドリゴ神父扮するアンドリュー・ガーフィールドは「世界に赴き全ての者に教えを授けよ」という布教への信念と棄教の狭間で揺れるロドリゴ神父を全身全霊で演じている。

彼はリー・ストラスバーグが生んだメソッド演技法だから、撮影期間中ずっとロドリゴ神父になり切っていたそうだが果たして信仰を貫くのか「転ぶ」のか、、その繊細かつ深い葛藤がこちらの心深くを激しく揺さぶり続ける。

ロドリゴ神父と共に日本に渡るガルペ神父のアダム・ドライバーも素晴らしい。

彼は怒りを内に籠めて、眼で表現する迫力が凄い。「スターウォーズ」の時とは違う、今回の彼の演技はとても繊細でキリスト教に殉じようとする彼のひたむきさが痛いほどに伝わってくる。

そして名優リーアム・ニーソンはこの映画のカギになるフェレイラ神父を見事に演じている。

ロドリゴ神父とガルペ神父の師匠でもありこんなにも崇高で信念の強い人はいはないと思われたフェレイラ神父がなぜ遠い異国の果てで棄教したと伝わっているのか。

そんなはずはない、今も生きているのか、それを求めて2人は日本に密航するわけだが映画そのもののサスペンスフルな緊張感がずっと続く。

そしてクライマックスにかけ、ロドリゴ神父とフェレイラ神父が対面した時のシーンの問答はまさに緊張感が沸点に達する。

日本人俳優も素晴らしい。

通辞役の浅野忠信のロドリゴ神父をじわりじわり追い詰めるだけどどこかで共感も垣間見えるその人としての二面性といやらしさは彼でしか表現できなかったと思う。

キチジローを演じた窪塚洋介。人間の弱い心を象徴するような男を彼の持ち味十分に説得力を持って演じ切っている。

ロドリゴ神父を苛立たせる程の身の翻し。踏み絵も躊躇なく踏み、だけど信仰は捨てられず、救いを求め、それを繰り返す。でも、彼をただの卑怯者だと突き放すことはできない。自分だったらどうだろうか、と誰に心にもある「心の弱さ」人間らしさを彼が見事に体現しているのだ。

元々、「GO」や「ピンポン」でスターダムに駆け上がった彼がドラマやTV局製作映画の主戦場から退いてもう15年位になる。

でも彼の役者としての天性の魅力は同世代の役者とは全く違う角度で今も尚、突き抜けている。それがマーティン・スコセッシ監督という世界的監督の元、別次元の形で、世界的に陽の目を観たことは本当に嬉しい。

隠れキリシタンのモキチを演じた塚本晋也は、壮絶な拷問の果てに至るまでの表現が凄まじい。

「野火」でみせたあの極限状況の形相とはまた違うただ同様かそれ以上にリアルに信仰に命を賭す生き様が迫ってくる。

木に張り付けられたまま荒波の中で放置され、息絶えるまでの拷問シーンは骨皮になって死んでいく人間の直前まで彼は体現している。ここまで映画でやらしていいの?と正直思った。

自主製作道を貫く日本を代表する鬼才監督ではあるが俳優としての力量もまた突き抜けている。

監督とは縁あって2度ほど話したことがあるがこちらが蕩けるような物腰の柔らかい優しい方だ。映画という一点に身を捧げた時にその狂気性を解放されるのだと思う。

藩主の井上を演じたイッセー尾形の存在感は突き抜けて素晴らしい。とぼけた味わいと容赦の無い狂気性が組み合わさって唯一無二なる「恐怖の権化」として存在してみせた。あの素っ頓狂に高い声色と物腰の柔らかさが逆に底知れず恐ろしくなる。

映画「太陽」で天皇を演じた彼と同一人物とは思えない。この作品でまた世界に相当なインパクトをもたらしたと思う。

この映画のテーマは、映画を観終わって簡単に答えを出せるようなものではない。

普段、タブー視されている「神」「宗教」「信仰」というテーマ。

答えが誰もわからないからこそ、その信仰や立場によって何とでも言えてしまう。

バイブルに沿って、キリストを生きる指針とするキリスト教。

森羅万象や人間の中にも神を見出す禅や仏教(宗派によっても違うが)。

たとえ特定の宗教に属さなくても全ての人が、日常の中で自分にとってしっくり来る「宗教観」を意識的、無意識的に心に抱いていると思う。

「神とは何か」
「宗教とは何か」
「どうしたら、人は救われるのか、悟れるのか」
「宇宙、自然、神は、同一なのか」
「神は、対象なのか、自身の中にあるものなのか」

ロドリゴ神父の根源的な苦しみは「なぜ、こんなにも過酷な状況を村人たちが強いられながら、神は手を差し伸べないのか、ただ沈黙を続けるのか」というものだ。

そこには宗教を信仰するにあたって第一義的な目的として「信仰を捧げることによって、救われたい」「神の恩寵を受けたい」という救済欲求がある。

なぜ助けてくれないのですか?

なぜこんなにも神に祈り尽しているのに、あなたは、、と。

だからこそ自力救済ともいえる自ら悟り、自らの中にある神を発現させるという禅的思想と対極にあるのだが、私は宗教に属さないものの改めて「禅的宗教観」を無意識的に選んでいることに気づかされる。

ある意味バイブルという本とキリストという一神教に縛られるのは、相当に束縛感があり、救済されようと宗教を信仰することによって新たに生ずる深い苦しみは、信仰が強ければ強いほど、想像を絶するほど大きいのだと思う。

もちろん「悟り」を求めて修行する禅僧もそこに到達するまでの深い葛藤があるのは共通だが。

この映画を通してマーティン・スコセッシ監督の30年近くも練り上げてきた渾身の映画を思い切り受け止められるのと同時に、

誰もが心の奥底で抱いている自分ならではの「宗教観」があぶり出されるというもう一つのインパクトがある。

映画を観終わっても命尽きるまで消え去ることの無い究極のテーマ。

「私にとって神とは何なのか」という明かされることの無い問いが

私を、あなたを、

永遠に揺らし続けるのである。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?