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4. 知っておいて損はないよ

「発達障害」の4文字が、最近やたらと目に付くのは、自分が当事者になったからばかりではない。そもそも、そういった話題を避け続けてきた私にまで届いたわけだから、巷には「発達障害」関連の情報が確実に増えているのだ。

「発達系女子」という括りができたり、「自称発達」などと揶揄される対象になることもあるほど世の中に浸透した「発達障害」は、ここ数年のトレンドワードと言っても過言はなさそうだ。しかし、実態がどれほど理解されているかには疑問がある。実際に話題を振ると、往々にして、「あー、最近流行りのやつね」、なんていう反応が返ってくることも多いのではないだろうか。

かく言う私も、つい最近まで、その程度の認識であった。

大人の発達障害や隠れ(グレーゾーン)になんて、本当にそんなものがあるのか? わざわざ診断与えて特別扱いするものなのか? と猛烈に疑念を抱いていたくらいである。新型ウツだとか適応障害に対しても、ある程度は社会生活ができている(ように見える)の軽度(に見える)の疾患、社会問題として扱うことは甚だ疑問、あくまで個人の問題と考えていた。
何も全員とは言わないが、病名に便乗して都合よく怠けているんじゃないか。誰だって生きるのは苦しいんだから、ストレスくらいで甘えるな、と、思ってもいた。
自分も生きづらさを自覚し、軽度のウツと不安障害を発症しながらも、当事者であるとは微塵も考えず、そこには攻撃対象にしかねない程の解離があったのだ。私は、「そんなこと言ったら誰でも発達障害」のような発言をする周囲の側にいた。はずだった。ついこの間までは。

私の発達障害が発覚したのは40歳のときなので、まだ1年も経っていない。いま、発達障害の知識を持った上で自分の過去を振り返ってみると、発達障害人の典型的行動パターンが面白いように浮かび上がるわ、家族親戚一同には軽度から重度まで発達障害と思しき人物だらけだわ(発達障害は遺伝的要因が大きい)、今となっては、むしろ気付かなかったのが不思議でならない。そして、もっと早くに気がついていたら……、と、心から思ったが、私のようなケースは決して少なくない。

外見はごく普通なので、発達障害と定形発達(発達障害でない人)との違いは一見わからない。100人に1人程の強い症状の場合は、さすがに変わった言動が目立つだろうが、50〜30人に1人ほど存在する軽度・グレーゾーンの場合は、気づかれないまま成長する場合が多く、症状に苦労しながらも、自らの発達障害に気がついていない人は相当数にのぼるだろう。症状の程度には濃淡があり、定形発達との間にはっきりとした線引きができるわけはなく、もっと範囲を広げると20人に1人は何らかの発達障害傾向とも言われる。もちろん、その全員に診断が必要だとは思わないが、自らの特性を知れば、もっと生きることが楽になるのではないかという人が、見渡せば私の周りだけでもだいぶいる。

発達障害とは、自閉スペクトラム症(ASD)、注意欠如・多動症(ADHD)、学習障害(LD)などの、先天的な脳の器質によって生じる数種類の障害をまとめた総称である。すでに解説書がたくさん出ているので、基本的な用語の詳しい説明についてはそちらに譲ることにするが、ここで強調しておきたいのは、まちがっても人格の問題ではないということだ。

発達障害を持っていると、体調に数々の慢性的な症状を抱え、コミュニケーションが避けられない社会生活において問題やストレスを抱えがちだ。故に、何らかの二次障害や依存にも陥りやすく、生きることが厳しくなってしまう場合が多い。
適切な対処をすれば改善は可能なのだが、発達障害を見逃したまま、ウツやパニック障害などの二次障害だけを見ていたのでは、根本的な改善は難しい。ましてや、心の問題として扱ったり、個人の資質を問うなど論外であり、症状が良くなるどころか重篤化させてしてしまう可能性が高い。
状況を悪化させないためには、発見第一なのだが、先に書いたように、よほど強くなければ発達障害は見逃されやすい。障害の種類が単体ではなく、ASD・ADHD・LDの重複と強弱があることで把握が困難な上に、グレーゾーンは過剰適応を起こすので、発見されないまま大人になることが多いのだ。

私の発達障害がこの年齢になって判明したのは幸か不幸かわからない。
私は今、自分の症状を自覚して、なるべくそれに見合った行動を心がけて毎日の生活をしているが、そんな発想もなく過ごしていた時間が長い。
その上で言えることは、発達障害を自覚した後の方が圧倒的に生きるのが楽になったということだ。あくまで私個人のことだが、体調面・精神面ともに改善している感触があるし、不安要素が減って、生活の質は確実に上がったと思う。
何かが優れないけれど、何をどう変えたら良いのかわからない。そんな状態は結構きついが、確信を持って取る具体的な行動は自信に繋がるものだ。

専門家によって診断基準や定義は微妙に異なる発達障害であるが、端的に言えば「精神的・肉体的に繊細な凹凸症候群」という説明が、私にはしっくりくる。
あくまで得意なところと不得意なところの差が激しい凹凸症候群。良く言えば敏感、悪く言えば過敏で、精神的・肉体的ともに、外的なストレスへの耐性が弱く、適応できる環境が極めて限定されているものの、劣った存在でも病でもない。現在の社会では、適応環境の少ない「少数派の遺伝子」を持つ個体であるとの理解だ。また、よく言われるように、生きづらさのある反面、ある種特別な才能でもある。もちろん、才能とは、突出して目立つもだけを指すのではない。

多様性が叫ばれる昨今、「発達障害」への関心も「流行」と言われるほど高まっているのは事実である。とくに昨年来のコロナ以降は、社会は急速に変わり、少数派にも適した環境が整いつつあるとは思うのだが、発達障害人の才能は、まだまだ埋もれている状況にあるのではないかと思う。

アート・デザイン・音楽・ファッション等々の、私が親しんできた業界にも、発達障害、もしくはグレーゾーンと思しき人は多かった。
流行に敏感で、センスが良くて、マニアックで、才能がありながらくすぶっている人、過剰な気遣い屋で「メンタル弱い」とされる人、慢性的な体調不良、等々の問題を抱えている人たちに山ほど出会った。そういった人を片っ端から「発達認定」する必要はないし、当人が困っていなければそれでいいのだが、巣窟であるにも関わらず、情報と無縁すぎたとは思う。(興味が狭窄的かつ、似た者が集まるので異質さが見えにくいこともその一因)
しかも、上記の業界は実力や才能がものをいう世界なのに、グレーゾーンは自らの才能になかなか気付かないどころか、気付いても自ら道を閉ざしてしまうようなところがある。それだけならまだしも、必死でその場にしがみつくあまり、搾取され続けて潰れてゆく人もいた。

実は、問題は解決可能である場合も多いのだ。ちょっとした習慣づけ、環境設定を少しだけ変えること、便利な道具を活用すること、必要な栄養を摂ること、必要最低限の練習、そんなことで意外と簡単に改善して、その結果、得意分野にたくさんのエネルギーを注ぐことが可能になることもある。

発達障害について知って、自分の得意不得意を客観的に眺め、少しでも楽に生きられる環境選択に活かすことができるなら、それに越したことはないと思う。
だから、当人も周囲も「流行」ですませたり、揶揄したりするだけではなく、発達障害をまじめに知っておいて損はないと思うのである。

個人の生き方はさまざまで、社会で活躍することや世間的な成功ばかりが幸せの限りじゃないが、やはり才能を埋もれさせておくのは勿体ない。
いつの時代も、道を切り拓くのは少数派の宿命で、発達障害を持つ人は常にパイオニアだったはずだ。どうせなら楽しく、確信犯的に堂々とやったらいいのである。


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