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2. 性別や名前

前回の発達障害に引き続き、最近になって認識した自己理解のもう一つのキーワードは、ジェンダーについてである。

男性・女性の二元論にとらわれない感覚を持つ“non-binary(ノンバイナリー)”という概念を知ったのはそんなに昔のことではないが、僕はこれを自認している。ノンバイナリーとは、「(身体的性に関係なく)自身の性自認・表現に「男性」「女性」といった枠組みをあてはめようとしないセクシュアリティ」と言われ、“ジェンダーレス”とか“Xジェンダー”とは、似ているようで違う。それぞれの定義の詳細は割愛するので、興味があるならば調べていただきたく思う。

僕の性別は、生物学的には女性に分類され、社会的立場も女性として扱われている。それについて猛烈な抵抗があるわけではないので、現在のところそれに準じる振る舞いをしている。が、意識としてはどちらにも属さず、また、どちらからも疎外されているように感じている。また、身体の物理的な差を軽んじるつもりはないが、世間一般において性別で仕分けることがこれだけ幅をきかせているのが釈然としない。男性・女性・男・女・女子・男子という単語を、無条件に口にしたり文字にするのにもやや抵抗がある。
そのあたりについてはいずれ書いていこうと思うが、まずは、お気づきのように男の専売特許である「僕」という一人称で語る理由について。


かねてから何かにつけて文章をしたためていた僕は、いくつか引っ掛かることがあって、これまでどこにも発表するには至っていなかったのだが、その引っ掛かりのひとつは一人称の扱いである。
小説などとは別で、心情を書くときの一人称は自分と直結している。「わたしは」「私は」、と書き始めると、どうも気持ちがわるくて筆が進まない。自分ではない別の誰かが語っているような気がしてならないのだ。では「僕」なら自分らしいかというと別にそういうわけじゃないのだが、今のところ少しはマシで、とりあえずは筆が止まることもない。

「私」の何が問題なのか。男女ともに使用可能の標準的な一人称じゃないかと思うかも知れないが、とくに文章にする際は印象は大きく異なる。
男の書き手が「私」を選択する場合、堅い文体・公的な内容が多いはずで、逆にラフな表現をする場合は使わない。くだけた言葉で語る「私」は無条件に女(やや軽薄な印象)、丁寧語で語る「私」なら保守的な女、もしくは成熟した男。そんな印象を受けるのが一般的ではないだろうか。
一人称を「私」とした時点で、以上のいずれかに属すキャラクターが自動設定されるわけだ。「私」=「女全般」or「真面目を装った男」、って感じだろうか。それはあまりに乱暴だ。
というか、だいたい主語3音って長くないか? リズムがよくないし、口語としてもすんなり出てくる音じゃない。外国語(たとえば I、Je、Ich、io、我)と比べても「WA・TA・SI」がやたらと発音しにくいのは、奥ゆかしさを美徳として自己主張を良しとしない日本独特の文化なのだろうか?

ちょっと話が脱線したが、つまり、言いたいのはこういうことだ。
性別の情報が先に入力されると、人は無意識に、個人の性質をその型にはめて見ようとする。それが耐えがたいということ。
性別も先入観も何も匂わせることのない、無色透明な一人称があればいいのに。

「僕」という一人称は、なんだか甘ったれた感じがするし、やはり女が使うのは自意識過剰すぎるだろうか、と臆していたのであるが、ノンバイナリーを自認し公言すると、それもどうでもよく思えてきた。
自分のアイデンティティが既存の枠組みに入らないなら、既存の常識は無視したって構わないんじゃないか。そう開き直ると、自分の考えや気持ちを文章にすることに対して変な力が抜けたのだ。別に「僕」と「私」が混在したっていいわけだし、その時々で自分が楽なのを使えばいいのかも。
というわけで、「私」になったり「僕」になったりして混乱させるかも知れないことを先に謝っておこうと思おう。

ついでに言えば、同じような意味合いで、自分の名前もしっくりこない。
当然ながら一般に女性用の名前とされるものだからだ。自分に当てられた記号が、自動的に女性性を帯びているという状況。これには違和感アリだ。僕の意識は「女」を生きているつもりはないので。(男を生きているつもりもないけど。)
よく知った間柄の相手に下の名前で呼ばれるのはいいとしても、それほどでもない人や初対面の人物に、敬称をつけて「〇〇さん」と呼ばれると、「〇〇さん」を演じることを強いられるようで息苦しいときもある。愛情を込めて名づけてくれた両親や、親しみを込めて名前で呼んでくれる知人たちには大変申し訳なく思うのだが(名前自体は大切にしているつもり)、それが本音といえば本音なのだ。
ふざけた活動名があるのにはそういう理由もある。

ジェンダーに限らず、僕はあらゆる場面で「型にはまる」ことを拒絶する。
属性や肩書きに縛られないでいたい。名前や一人称をいちいち気にしている時点では、僕自身まだそれらから自由になっていない証拠かも知れないが、常にボーダーレスで、流動していたいと思うのだ。

とはいっても、性別も家族も会社も国家も、現時点では必要な役に立つシステムであると思うので、既存の社会や枠組みをはなから否定するようなつもりなどはない。そこに居場所がないなら、少し離れて新しい世界を作ればいいのだ。

…… と、

いろいろ不満(?) を書き連ね、考えを主張して文章を締めたのだが、ここまで書いたところ、溜め込んでいたものが発散されたせいなのか、これらのことが、すでに結構どうでも良く思えてきたことに気がついた。
自分に正直になり、スタンスを表明することは、そのまま生きやすさに繋がるのかも知れない。アウトプットすることは、やはりある種のセラピーであるようだ。



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