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異国の本屋より

渡豪して5か月が経とうとしていている。

オーストラリアにも本屋はある。
結構な頻度で通っている。日本語よりも読むスピードも遅いし、日本語も読みつつなので時間がかかるので、買わないかもしれないけれどなんとなく。
装丁から日本のそれと、全然違う。パキッとカラフルなイラストが多くて、写真もインパクトがあるものが多い気がする。
アルファベットはカリグラフィーに凝る要素が多くて、本のタイトルだけ収集したいくらい。自己啓発・ビジネス書の類はタイトルが大きくて、ほぼタイトル勝負。この辺は日本と同じだけど、アルファベットの訴求力は日本語のそれとちょっと異質だ。
そもそも、判の基準が全然違う。だいたい全部大きい。日本のハードカバーくらいの大きさがスタンダードで、文庫本サイズはほぼない。西洋人の手は大きい。文庫本の手本にされたともいわれる、ペーパーバックという普及用の本でさえも大きい。ペーパーバックにはカバーはない。厚紙が表紙でそのままくっついてる。
帯はない。文学賞受賞作、○○誌推薦、みたいな文言は装丁にそのままプリントされている。表紙にあることも多いし、裏表紙に印刷されていることもある。
本の置き方も違う。平積みは基本なくて、本棚に挿してあるか、表紙がみえる面陳列である。平積みよりも美術館みたいだ。
並べ方も面白い。出版社別の配置はまず見たことがなくて、基本的に本のジャンルだけで並べる。入口には話題書のコーナー、近いところから料理、自己啓発・ビジネス書、絵本、語学、ガイドブックと並ぶ。どうやら文芸は奥にあるみたい。日本では文芸は入り口に近いところに配置されて、実用書系は奥に置かれることが多い(と思っている)。
文芸のなかでも、ジャンル分けが面白くて、ロマンス、フィクション、クライム、SF、(純)文学、ポエム、そしてヤングアダルト。日本の書店では、このように文芸のジャンルごとに棚が変わることは稀であると思う。ほとんどが版元や判型に分類されて、あとは著者の名前の順に並ぶ。日本よりも読者によって読むジャンルが明確に分けられているのだろうか。
マンガのコーナーもあった。グラフィックノベルと合わせてひとつの棚になっているものの、ほとんどが日本のマンガの英訳だ。ワンピース、鬼滅の刃、鋼の錬金術師、コナン、五等分の花嫁など有名作品を中心に並んでいた。ところどころ、名前も聞いたことのない作品が並んでいて、それもまたいいなと思った。気になったところとしては揃え方で、巻数が虫食いなのだった。日本でも当然虫食いの状態はありえるのだけれど、明らかにさっき買われて虫食いになったのではなく元から入っていなかったみたいな挿し込み方だ。棚の隙間はないのに、数字の隙間だけある。何とも言えないそわそわを感じてしまった。
話題書コーナーの隣にセールのテーブルがあって、定価よりもちょっとだけ安く売っている。日本で新刊の値段は変わらないので、初めて見たとき驚きながら羨ましくもあった。
街の中に本屋が少ない理由のひとつは、どこにでも売っているからだと思う。服や収納、調理器具など生活に必要なものが揃うホームセンターみたいなチェーン店がいくつかある。その一角に、そこそこの種類の本が売られている。本を売ることは本屋の専売特許ではなさそう。でも、そのコーナーが書店と同じ空気を持つかと言うと、私は否定的で、青木まりこ現象も起きなさそうである。あの特有の空気がないのは寂しい。

知らない名前ばかりの本屋で、日本人の名前を見つけることは本当にうれしい。村上春樹、川上未映子、よしもとばなな、恩田陸、カズオイシグロ。『コーヒーが冷めないうちに』はベストセラーになって続編を含めてランキングコーナーに置いてある。

オーストラリアの本屋は楽しい。けれど、日本の本屋が恋しいと思い始めている。
たしかに、ほぼ外出のたびにどこかしらの本屋に入っていた気がする。友達と合流する時間を潰すときに最適なんだよな。買いもしない雑誌とビジネス書をみて、何が注目されるかを感じる。平積みのマンガを見て世代の入れ替わりを感じる。おすすめコーナーで本屋の個性をみる。奥の参考書コーナーでノスタルジックを感じて、就活本でヒヤリとする。岩波の棚を見上げていつか……と馳せる。
どれだけ頻繁に通おうが、楽しく発見がある場所である。

書影を眺めるのも大好き。イラストか写真か。文字組みはどうか。ジャケ買いもする。
帯の文を読んで候補リストにメモメモ。タイトル買いもしそうになる。

そんな本屋との時間を思い出すと、日本とオーストラリアで流れる情報がこんなにも違うのかと実感する。同時に、母国語に囲まれることの安心感。当然街にも英語の文字や音は存在するけれど、本屋以上に外国語に囲まれる場所はないと思う。

英語の文字に囲まれることに安心感を覚えるほどに、英語が肌になじみますように。