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人の一生



ちょうど1年前、noteの最初の記事で人生のことについて書きました。



その時は「人生は嫌いなことやしなければならないことをするためにあるのではなく、やりたいことや好きなことことためにある」と書いたのですが、これは単に逆張りの発想で話していただけだなと思い、まだまだ考えが甘いなと感じたのです。



この1年間で考えも変わり、もう少し本質的なところまで突っ込んで考えられるようになったので執筆します。


見えなくするもの


人の一生なんてあっという間ですよね。
大抵人は自分が何のために生まれて来て、何をすべきかという自問自答を繰り返しながら、それぞれの人生を謳歌してます。


この時自身に対する何らかの自答が決定するわけですが、注意しなければならないのが自分が決めたその何らかの答えが本当に"自分で考えたものなのか"否か。


簡単に言えば「常識」に流されていないか、ということです。


現代は自分の人生をどう生きるか考える時に、非常に厄介で考えを惑わせる邪魔な概念や常識、価値観、モノの見方が蔓延っています。


例えば「結婚」
恋愛し結婚して子供を産んで家庭を築こうが築かまいが、"本当は"どっちでもいいことなんですが、結婚するのが「当たり前」になりすぎてどっちでもいいなんて思えないようになっている。
小さい頃からそれが常識になってるからです。



子供も1人の人間ですから、育てるのは本当に大変なことだと思います。
「子は親を超えていく」なんて言いますが、きちんと教育しないといけませんし、教育をするからには自分(親)が持ってる知識や情報以上のことを他人に教えることは出来ません。



今では兎に角お金をかけていい塾に行かせることが子供に"良い教育"が出来た、なんて考える人が多いと思いますがそんなことは決してありません。
自分の子供の教育の大半を他人に任せている(良い学校に行かせること自体に満足してるのも然りです)時点で、見当違いだと思ってます。


たった1人の子供を"きちんと"育てることはめちゃくちゃ大変であって、軽い気持ちで結婚や子育ては決断していいものではないはず。
そういうものですから、全員が結婚して子育てをする必要はないのです。
「自分はやらない」と決断するのも全然OKです。



また、仮に少子化のために子供を作れと言われるのも本当は知ったこっちゃありません。
勝手に"自分事"のように関連して押し付けてきますが、それはあくまで「国家」側の都合。我々には大切な時間があるのですから、押し付けられた概念を前提に、どう生きていくかを考えるのは非常に勿体無い。



このように世の中には自分の大切な人生(時間)をどう生きたいか考える時に邪魔な概念だらけなのです。



別の見方


ここまでは前回の話の補足的な要素しかありませんが本題はここからで、まず、一生をもっと俯瞰して捉える必要があるなと。


私たちは常に自然と関わっています。


光合成をした植物が空気を生成してくれて、海があるおかげで魚を食べられ、雲が雨を降らせることができるから農業が完成します。

また、食物連鎖のように何かの生命が別の生命を継なぐバトンにもなっていてそれは人間も同じこと。
肉や魚、野菜があるから私たちは生命を維持出来ています。


このような仕組みがあるからこそ私たちは生きることができていて、私たちの生命は究極的にはその自然システムの一部でしかないです。


今、人間は自分たちのことを特別扱いしていて動物界のトップに君臨し自然や動物を蹂躙するようになりました。
道具を使えるようになり、農業が生まれ、社会・都市が生まれ、国が生まれ、宗教が生まれ、支配・権力が生まれ、戦争が生まれ、科学技術が生まれ…そうした土台の上に今の世の中があります。


この過程により、人は自分の一生をどう生きるか考える時に「どれだけお金を稼ぐか」「どれだけ良い会社で出世するか」「どれだけ立派なことをするか」「どれだけ物質的に豊かになるか」等々の物差しで考えるようになってしまいました。



こういった物差しは人間が作った最大の"後付け"であり、時代と共に変化する後付けを追い求めているのが多くの人の現状ではないでしょうか。


あやふなで本質的ではない思想から適切に距離を取り、じっくりと自分の一生について考えれば、人間が追い求めてるべき本質というのは時代がどれだけ変化しようとも大きくは変わらないのではないか。

進歩した科学技術の恩恵をたっぷり受けて生活を豊かにすること自体は構わないけど、本質的な部分が見えなくなるまで常識や社会洗脳にどっぷり浸かり人生を灰色に染めてしまうのは勿体無いと思います。


もっと言うと、「お金」がこの世に存在しない時代があったわけで、その時代に生きていた人はお金を稼ごうなんて考えない。
「どれだけお金を稼ぐか」に重点を置くようになったのは、お金が生まれた後の時代であり、お金の誕生と共に人生の過ごし方がすっかり変わってしまったら、それは実際のところ単に欲や感情に流されただけなんじゃないの?ということです。



私は"人間は自然に帰れ"と言ってるのではなく、私たちが普段見ているものの外側にしか、私たちが人生をかけて大切に培っていかないといけない価値観や考えはないと。
今はそんなもの、受動的に生きていては絶対に見つけられないでしょう。



これははっきり言って全然楽なことではないです。
世の中の"現実"をきちんと見ることと同義であり、その上で人生をどう過ごすのか考えるわけですから自分の頭をフルで使ってこなかった(つまり、大なり小なり何かのレールに乗っかて楽してた)今までとは訳が違います。



何をすべきか


私は今、本来自然の一部でしかない人間がいつしか、人生の目的を考える時に本来の在り方とは関係のない概念に囚われて考えてしまっていることを説明しました。


この段階まで来るとちょっとしたことでは精神的に病んだり、性根が腐って変な方向に突っ走ることもありません。


自分は何らかの使命を受けて生まれて来てそれに気づいたら、あとはそれを淡々とこなす。そして、人生を終えて下の世代にバタンタッチする。
実にシンプルであり、世の流れを追っていけばこの通りになっています。


使命があるからと言って意味を履き違えるのではなく、個人が出来ることなど多分に限られていますから、拡大解釈したり自分を物語の主人公のように"お花畑"で捉えてはいけない。



自分が持っているもので何が出来るんだろうと、謙虚に日々コツコツと考えと行動を積み重ねていくだけだと思ってます。
その内容はもちろん、人それぞれ違うでしょう。
皆が同じようにこのように生きているなら循環も上手くいくんでしょうけど、人間のエゴは限度を知りませんから、灰色の世界を見れば見るほどどうでもいい"人生の営み"を送るようになります。

前回の人生に関する記事で「好きなことだけやればいい」と書きましたが、少しズレてましたね。
今見返すと考えが甘かったなぁって思います。


このようなことを20代で分かってしまったため、私は既に所謂"遊び"というやつを完全に辞めました。


もし過去のように時間を過ごしたいという気持ちになったら「もっと時間を大切に使えよ!ばか!」と自分に言い聞かせてます。


一般的には受け入れられないような考え方であり、また、それをフルで実践しようとする人はごく僅か。
だけど、別の視点で人生を捉えてみて自分はこの人生で本当に思い出さなければならない価値観や、行動した人にしか分からないその先にある素晴らしい考えに触れたいなと思っています。




この記事が何かのきっかけになると幸いです。







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