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【旧約聖書ダニエル書】忘れ去られた羊たちの二神論

ダニエル書第8章の雄羊🐑からの解説をしていこうと思います。

わたしが見ていると、その雄羊は、西、北、南にむかって突撃したが、これに当ることのできる獣は一匹もなく、またその手から救い出すことのできるものもなかった。これはその心のままにふるまい、みずから高ぶっていた。

ダニエル書 第8章4節

位置関係に関しては前回の記事をご覧ください。

6 この者は、さきにわたしが川の岸に立っているのを見た、あの二つの角のある雄羊にむかってきて、激しく怒ってこれに走り寄った。

ダニエル書 第8章6節

ここでの羊🐑生贄と関係があるようです。生贄という行為自体が日本では馴染みがないですが、イスラムでは本来、羊の肉🐑を貧しい人々に分け与えるための犠牲祭だったそうです。

イスラム教を形成した1つであるゾロアスター教の生贄祭家畜を捧げていたとされます。ヤギ🐐の生贄野に放たれた動物に対し、羊🐑の生贄飼われた動物という対照的な儀式であることも興味深いですね😀
羊の生贄は、イスラム教になって現れてきたわけではなく、シュメール人の時代から動物の中で羊が家畜の主流になるほど人々に馴染みがありました。
遊牧民に限らず農民も羊を飼っていたため、都市部に暮らす住民たちにとっても羊は身近な家畜であったとされます。メソポタミア文明の頃から祭礼の贄として用いられることも非常に多く、栄えた都市では一日に何百頭というが神に捧げられることもあったほどです。

聖書の時代に併せて雄羊🐑をアケメネス朝ペルシアだとすると、その頃のアケメネス朝ペルシアは他の宗教も受け入れていたようですが、ゾロアスター教を国教としていました。日本でも羊神社ゾロアスター教に関する言い伝えがあるようです。

上野国あるいは武蔵国の秩父地方出身とされる羊太夫であるが、その出自をたどると、かつて都で勢力を持った物部氏の子孫であるとか、秦氏に近い渡来人、しかも中央アジアにルーツを持つネストリウス派キリスト教徒やゾロアスター教と深い繋がりがあるのではないかと言われる。

日本伝来図鑑


雄の羊🐑とありますので、ここでも父系血統が考えられます。実際に「ヘビーストゥーン碑文」によるとダレイオスカンビュセス父系高祖(テイスぺスの父がアケメネス)とあります。祭司に関しても、ゾロアスター教に於ては世襲制で男子が継承していたそうです。この時代も男子に優位性があったことが推測できます。
ちなみにアケメネス朝ペルシアキュロス2世ユダヤ人バビロン捕囚から解放した人物であることを先にお伝えしておきます。彼の時代はとくに国内の信仰に対してかなり寛容でした。死後、キュロス2世は比較的簡素な墓に埋葬されましたが、それはペルシャの大王であり、アケメネス帝国の創始者であったことを物語っています。そのため、キュロス大王はペルシャで最も称賛される王の一人だったそうです。古代から現在に至るまで、政治、宗教、哲学に多大な影響を及ぼしています。


この雄羊6節によると2つあります。に関しては、前回の記事で人間を超えた力と前回で説明しました。しかし、今回は目の間にはあるわけではなく、しかも角が2つとのこと。
人間を超えた力を神による力だとすると、1つの角であれば、1つの神となり、2つの角であれば2つの神となります。そう考えると、ゾロアスター教善神と悪神の構図があてはまります。ゾロアスター教といっても時代によって神や信仰の形が変わっていて、もともとの教義も口伝でもあったため、その実体は定かではありませんが、1神ではなく敢えて善と悪の2神を立てた意味をこれから解説していこうと思います。

日本では、(キリスト教もですが)鬼や悪魔や魔王など神ではない呼び方にすることで、悪の存在が神以下の存在となっています。
この思想によって悪はいつかは成敗されるべきものと思考するようになりますが、これを二元論とします。一方、ゾロアスター教は悪を神として善の神と同等な存在として表すことで、悪もまた偉大な存在であるという解釈ができます。これを二神論となります。

この二元論二神論とでは、かなり意味が変わってきます。

二神論になると相対した関係になりますので、善があれば必ず悪が存在する関係になります。ですから、いくら悪を消そうとしても善がある限り悪は消えません。2元論の考え方になると悪は消えるもの(消すべきもの)であるという考え方になるので、悪があることが異常事態となります。哲学的に言うと、ある存在に対して存在している意味がないという思考が芽生えるということです。例えば、自分や自分が大切にしたい人やものを不快にする行為、人物が対象となります。時代劇の悪役はいい例だと思います。もしかしたら自分自身に対しても存在している意味がないと思うこともあるのかもしれません。こういった「私」にとって必要なのか、もしくは快適なのか利益があるのか、そうじゃないのか?で私を含めた目の前の存在の価値が決まります

それに対して、二神論の悪は人間よりも超越した神になっていますので、人間よりも格式が高くなります。
アケメネス朝後期に導入されたとさるズルワーン教は善神と悪神の上にズルワーンという中立の神を立てています。

ズルワーン教

ズルワーンは、善神オフルマズド(アフラ・マズダー)と悪神アフレマン(アンラ・マンユ、別名アーリマン)の親とされています。性を持たず(中性)、感情を持たず、善悪どちらにも傾かない中立的な創造神です。アヴェスター語のzruvan-「時間」または「老い」という意味に由来し、ズルワーンは一般的にギリシア神話でクロノス(時の神)の姿で対応していますが、古代ローマ・ギリシャではアイオーン(年の神)にも置き換えられたとされています。余談ですが、雄ヒツジのアリエスは聖なる年の始まりを示し、 時が来ると死ぬことで、新しいアイオーン(年の神)を再生させるともありますので、羊🐑を生贄に屠るのは復活祭の意味もあるのでは?と思ったりしてます😃

ベリアルの訴訟

善と悪への中立な見方といえば、ベリアルの訴訟という話があります。
ベリアルはトーラー新約聖書死海文書にも登場する悪魔です。死海文書では、悪魔とは表現せずに破壊の天使とされているようです。
ベリアルは中世の解釈によると、法律に精通していて、彼(彼女)は自身の巧みな弁舌を武器に(霊界で)イエスを訴えました。ベリアルは地獄の利益の公認代表者として、神に「イエスという個人が地獄の権利に干渉し、地獄の領土となっている地上及びそこに住む者の支配権を強奪した」と主張しています。キリスト教からしたら、自身の命を犠牲にしてまで善意をもって布教したはずなのに言いがかかりであるいいたくなるような内容ですが、今ではキリスト教は世界宗教と言われるほどにもなりましたので、イエスの影響力は圧倒的であり、地獄を悪の領土だとするとベリアルからしたら不平等であると言いたかったのでしょう。

この裁判はイエスに有利に動き、最終的にイエスは無罪となりますが、サタンには最後の審判の後、地獄に堕とされる不善な者全てに権威を振るってよいという判決が下されました。

この話は、中世の神と悪魔の裁判というテーマで大流行していた時代に最も有名だとされるヤコブス・デ・テラモ(1382年)著の『この不愉快なるベリアルの書』による内容です。

では、中立の神は、なぜそうまでして悪の存在を肯定するのでしょうか?

二神論という考え方

人間にとっての悪とはなんだとおもいますか?自由を奪われること、不安や恐怖を感じさせられること、残酷なこと、罪のない人々や動物が命を奪われること、不快に感じることすべてが悪に見えてきます👀

イランの新異教主義(もしかしたら古来からかもしれないが)では、あらゆる人は神と繋がっており、人間同士の意見の交換は神との対話のごとく神聖なものであるとしているそうですので、ここからは、二神論を分かりやすく説明するために2人称で説明していこうと思います。

例えば、あなたと対立する二つの勢力があるとして、彼らはあなたの今までの自由を奪おうとします。彼らのせいであなたの大切なお金、時間、積み上げたものがなくなると知れば、あなたはそれを奪われまいと抵抗をし、戦うことを選ぶでしょう。だれもがあなたの正義に納得するかもしれません。しかし、あなたは自分の正当性を訴え続けますが、相手の正当性は考えようとはしないでしょう。もしかしたら、あなたは彼らを非常識な野蛮人だと思うかもしれない。あなたと戦う彼らもまた正義であることをあなたは知る由もない。あなたにとっての悪は、相手が放つ正義でもあり、あなたの存在そのものも彼らの自由を脅かし彼らのそれまでの生き方を否定することになるということを、あなたは知らない。あなたは、その怒りのまま、彼らと激しくぶつかろうとします。

これが人間の正義です。そして、あなたはその戦いの中であなたにとっての善神の加護を受けたとします。あなたと争う相手もまた、あなたにとっての悪神の加護を受けることになるでしょう。中立の神はどちらに対しても審判を下しますが、あなたにとっての悪神が有利であれば、あなたは負けるでしょう。あなたが彼らに負けたということは、神の下であなたは勝者に相応しくないということです。それは、実力の問題ではなく、あなたの器量が足りなかった、それだけのことです。ですので、あなたが負けたのなら潔く引き下がって負けを認めるべきなのです。あなたが負けたことを、失敗をしたことを認めなければ、あなたは相手への憎しみに囚われ続けます。精神的に何の進歩もなく同じ場所に立ち止まったまま、あなたは動こうともしない。

あなたが自分の敗北を認めることができたなら、あなたが浴びた罵声はあなたを強くさせるでしょう。あなたが他人に裏切られたなら、洞察に気がつくようになることであなたをより賢くさせます。押し寄せる恐怖とプレッシャーの中で冷静さを保てるようにもなります。そして、あなたは別の挑戦を挑み続けて自身を克服していくのです。


そうやって、あなたに変化が訪れるとき、悪神の恩恵ははじめてもたらされます。不運に見えた出来事の正体があなたにとっての必要悪(試練)として現れ始めました。

(そういえば、我が国のどこぞの神もよく試練を与えていたという話もありましたね😀)


あなたは考えたことがあるでしょうか?
過去の苦しみのお陰で今のあなたがいるということを。今、あなたが立っているその場所にあなたを動かしたのは、あなたがかつて怒りを覚えて憎んだ人々だということを
あなたは成功を味わったことがあるとすれば、善神の賜物をありがたく受け取っていたことでしょう。しかし、その下に変化をもたらした悪神の恩恵があることを忘れてはいけない。


悪神の正体あなたの変化のためにいやあーな形で現れる試練ということです。これが二神論です。悪を創造した理由は度々議論にあげられますが、人間の精神活動に変化をもたらすためには破壊が必要なのです。

ゾロアスター教で女性の月経は悪魔によって婦人に苦しみを与えられたことは有名な話ですが、同時にゾロアスター教の聖典であるアヴェスターには月経が生殖能力を示すものとして評価されていたともあります。これは、出産とは別に生殖能力を持ち続けることへの代償として苦しみがもたらさられるとして表されます。
このように善神と悪神、男神と女神、光と闇、天の神と地の神、相反する神を同時に信仰することを天地両神といいます。古代インドの聖典であるヴェーダにも見られる信仰です。

古代の信仰をみていると現代が、どれほど分離している信仰であるのかがよくわかります。

「優れた悪がなければ優れた善も生まれない。」

この言葉は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェが書いた「ツァラトゥストラはこういった」の中にあります。ツァラトストラという名前は、ゾロアスター教の開祖ザラスシュトラのドイツ語読みです。ニーチェは分かっていて書いていたんでしょうけど、二神論として捉えるとなかなか奥が深いなーと考えさせられます🍵

もしかしたら、一元論的二神論とも言いたくなるかもしれませんが、神にとっての悪とは堕落ということを最後にお伝えします。もしかしたら、神へ向けた悪ということなのかもしれませんが。堕落が進むと虚無へ向かいます。
またこの話もどこかでゆっくりできたらなーと。

それでは、今日はこのあたりで。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました!



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