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歴史の荒波の中で祈り続ける殉教者

今日は、改心した野蛮人たちに秦氏がいる根拠を書いていこうと思います。
前回までのお話はこちらです。

改心といっても、私達が思い浮かぶような改心もあるかもしれませんが、考え方やこれまでのやり方を変えるような改心も含まれますので、秦氏だから全ての秦氏がいつも善を行ってきたと捉えるのは少し安易のような気もします。しかし、野蛮人たちや秦氏によって築き上げられた文明は、現代人の生活になくてはならないものばかりですので、そういった意味でも彼らを敬意を持って見ていくべきだとは思っています。

秦氏はユーラシア大陸から朝鮮半島を経由して日本にもやってきた渡来系氏族です。鉱山技術、鍛冶技術、養蚕、機織、酒造などの最先端テクノロジーを日本に伝播させたスーパー技術集団でもありました。一説では、生贄が儀式的に広がりつつあることに困り果てた卑弥呼が依頼して生贄をやめさせるために派遣されたともあります。秦氏を思い浮かべると古代史のロマンが広がりますね

秦氏とアナトリアにいた野蛮人たちを繋ぐのは景教と言われるキリスト教の一派です。これがネストリス派キリスト教です。ネストリウス派キリスト教が歴史の表舞台に出てきたのは、異端と判決された431年のエフェソス公会議が有名ですが、前回記事にもあった使徒パウロの布教によって、それまでにはキリスト教の一部として確立していたことが推測できます。異端となった後は、西方キリスト教以外にもペルシャ地域のゾロアスター教からの迫害にまで発展しますので、生きるか死ぬかの世界です。終始追われる彼らの人生は相当生きづらい歴史を辿っていたことでしょう。

そんな景教とケルト人と秦氏、ペルシャとローマ、それらの関係性を解説していきますので、パズルのように組み立てながら理解頂けたらと思います。

景教徒

景教もあまり馴染みがないかもしれませんので、簡単に説明しますと東方キリスト教徒として秦氏と同様に移動とともに世界各地にキリスト教のみならず様々な文化をもたらしました。まず、アケメネス朝ペルシアやケルト文化もそうでしたが、その時代は口伝継承が基本です。そのため文字を持っていない国もありました。移住先で景教徒たちは文字を書く文化を持ち込みます。聖書を異国で伝えるためです。さらに統一した文字ではなく、その国の文化や価値観に適した文字を開発していったようです。
そうしていくうちに景教によって紙に記す出版技術が誕生しました。他にも火薬羅針盤も景教徒が作ったものです。

医療では大黄という生薬をはじめ薬草の知識があり、奇跡的な効能を示したと記録されています。その結果、彼らの働きは東洋医学にも大きく貢献しました。はちみつと果物を煮込んで凍らせて食べるシャーベットも彼らの発明だそうです。

キリスト教の福音を伝える以外にも慈善事業として無料の学校や福祉施設、医療施設を各地に開設していきました。日本にも早くから伝わってもいて、聖徳太子が創設した四箇院の原型は景教徒の活動によるものからです。

中世では、プレスター・ジョン伝説という非常に優れたキリスト教の王がいたという伝説まで残っています。人々の生活に大きく貢献した景教徒たちで統治される国を想像すると、素晴らしい国だったんだろうな~と思えてしまいますね😊

ところで、景の教えと書いて景教と書きます。陰と言われると闇が思い浮かんで、闇の組織とか、闇市とかあまりいいイメージが湧かないかもしれません。景とは真っ暗な闇だけを指すのではなく、その中の少しの光を見つけ出して希望を持っていきていくことです。いやなことが起きたり、思い通りにならないように見える真っ暗な人生の中、少しのいいことで幸福を抱きつづけること。それが星神信仰でもあります。
ちなみにユダヤ教は、もともとは太陽暦ではなくて太陰歴を採用していました。太陽暦はあとから取り入れたものだそうです。東方キリスト教は旧約聖書のユダヤ性を遺していると特徴もありますから、景教とユダヤ教との類似性も否定はできません。

あのイスラム教の創始者ムハンマドも霊性に目覚めたのは景教徒に出会ってからとも言われています。小学校にすら通ったことがなかったムハンマドは景教徒であるセルギウスに出会ったあと、宗教心に関心を持ち、それから数十年後にイスラム教を興しました。

歴史に残る偉大な人々に影響を与えてきたわけですので、アジア東方キリスト教である景教は、ヨーロッパの西方キリスト教よりも圧倒的に多かったとも言われています。それほど、景教徒によって爆発的に広がった時期がありました。

ペルシャと景教徒

3世紀から7世紀にかけて西アジアを支配したササン朝ペルシャ帝国により育まれてきた景教を638年、は公認しました。その寺院は当初、ペルシャに由来する宗教という意味のヘブライ語פרסי(pharsi、ファシィ) 、もしくはペルシャ語の「ファルシィ」の音訳として、「波斯」という漢字が用いられ、中国では「波斯寺」(はしでら)、もしくは「波斯経寺」と名付けられました。それに続き、日本でも同様に景教のルーツを持つ広隆寺も、「波斯の宗教」「ペルシャの経」という意味の「波斯経寺」と命名されたのです。

よって、景教とペルシャは強い関連性が読み取れます。さらに景教とユダヤとの共通点をユダヤ人ラビによるマーヴィン・トケイヤーが書いた『日本・ユダヤ封印の
古代史』
に書かれている彼の体験記が証明しています。彼が出会ったペルシャ(イラン)やイラク、アルメニア、クルジスタンに住む者たちはみな、景教徒たちは失われた10部族のうちの子孫だと信じていたと言っています。彼らは古代イスラエル人と中近東の人々の言語であったアラム語を話していました。さらに景教徒たちは、旧約聖書で禁じられている食べ物を口にしなかったそうです。名前でさえもイスラエル人の名前を採用していたそうですが、その中にはあの『ダン』の名前も入っています。安息日に火を使わない風習も断食の日もユダヤ教徒と酷似しています。

ダンに関してはこちらで記事にさせて頂きました。

景教徒と秦氏とローマ

大秦景教流行中国碑という中国の明末に長安の崇聖寺境内で発掘された古碑にはキリスト教ネストリウス派(景教)の教義や中国への伝来などが刻まれています。碑文は32行、毎行62字、計約1900字。景浄の撰。書は呂秀巌で格調高く、漢字の外には、エストランゲロと呼ばれる当時伝導に使用された古体のシリア文字が若干刻されています。シリア語からもペルシャと景教の関係性が表れています。

大秦景教流行中国碑

大秦とはローマを指す

石碑に書かれている大秦(だいしん)とは、中国の史書に記載されています。ローマ帝国、もしくはのちの東ローマ帝国のことを指します。

●後漢書

「和帝の永元九年(97年)に西域都護の班超が甘英を使者として大秦に派遣した」

大秦の初出である。この後、甘英はシリアにまで到達し、地中海を渡って大秦へ赴こうとしましたが、パルティア人の船乗りに「大秦までは長ければ2年以上も航海せねばならず、長期間陸地を見ないために心を病んで亡くなる者さえいる」と言われたために大秦に行くことを諦めたとの記述があります。

●魏略

「大秦には普段は王はおらず、国に災難があった場合には優れた人物を選んで王とする。災難が終われば王は解雇されるが、王はそれを恨まない」

これは共和政ローマにおける独裁官(dictator)に関する記述であると考えられます(独裁官は非常時にのみ置かれ任期は半年)

●梁書

「呉の黄武五年(226年)に大秦の商人で字を秦論という者が交阯にやってきた。交趾太守の呉邈が孫権のもとに送り、拝謁させた。孫権が大秦の地理や風俗について訊ねたので、秦論は詳しくそのことについて回答した」

中国の歴史上、ローマ人とビザンチン人の名前はよく中国語に訳されていますが、姓は彼らの本籍国である大秦に由来します。

新羅はローマを指す

羅馬と書いてラーマと読み、ローマ帝国を意味していたそうです。新羅の時代に天馬塚という王族クラスの墓が築かれました。「日本の学者、由水常雄氏の『ローマ文化の王国-新羅』によると、新羅をローマ文化の王国と描写しています。ローマ時代から西域と新羅の間に活発な交流があったということです。もちろん遺物と史料で立証され、例えば文官の埴輪や武人の石像など地上の遺物を見てみても、すべてローマ、ペルシャ、アラブと関連した遺物です。

天馬図

新羅に関する記述は、845年ごろ、アラブ歴史学者イブンフルダーズベーが書いた『王国総覧』には、『中国の東側に新羅という国があるが、9人の王が治め、金が多く、住みやすい美しい国だと評価しています。このため新羅に行けば帰らず永遠に暮らす同族が多い』という記録が出てくるとも。ムスリム地理学者マクディシ(al-Maqdisi)が966年に書いた『創世と歴史書』にも『中国の東側に新羅という国があるが、空気が澄んで、富が多く、土地が肥沃で、水が良いだけでなく、住民の性格も穏やかで、新羅に行った人たちはそこから離れようとしない』とあります。

新羅と秦

新羅は「中国の秦の民が流れてきて出来た国」という記述が「後漢書」「三国志」「晋書」「北史」にあるので、朝鮮半島には「秦」の人間がいた可能性はかなり高いと思われます。

ここまででもキリスト教がローマとペルシャを繋ぐ景教徒ということがイメージができるかと思います。

蛇神信仰

ペルシャとローマ、そしてキリスト教。
それはまさしく前回記事にしました使徒パウロによって改宗した者たちが全ての要素をあわせ持っていることは言うまでもありません。

さらに根拠を裏付ける蛇神信仰があります。
ミトラス教(ミトラ教)は古代のインド・イランに共通するミスラ神(ミトラ)の信仰とされていますが、ローマ紀元なのかペルシャ紀元なのか論争によってはっきりしていません。牡牛を屠るミトラス神が地中海世界に現れ、紀元後2世紀までにはミトラ教としてよく知られる密儀宗教となりました。
のちに弥勒菩薩(マイトレーヤ)として、ミトラ神の未来の救世主という属性を大乗仏教が取り入れて生まれて誕生しました。

ミトラ教

画像のような石碑がよく取り上げられるますが、一説ではローマでは庶民の地下信仰だったはずなのに、富裕層でないと作れないはずだと指摘されてもいます。
この石碑のミトラス神の牡牛の足元には、犬とともに蛇は牡牛の血を飲もうとしている様子が描かれています。

アイオーン神

さらにミトラ神の神話の大系の中に、獅子の頭を持ち、身体に蛇を巻きつけた有翼の神像アイオーンがいます。姿形や何を意味しているのかは地域によってそれぞれですが、ミトラ教の信者たち(ゾロアスター教における太陽神の信者)は、このアイオーンのことを、時間およびその帰結としての破局のシンボルだと考えていたそうです。当時の蛇神の存在は大きかったことでしょう。

秦氏と蛇神信仰

太秦という地名はよく知られていますが、太秦にある広隆寺は秦氏寺であることが認められています。『日本書紀』推古11年(603年)11月条には、聖徳太子から秦河勝が仏像を賜り、蜂岡寺(はちおかでら、現在の広隆寺)を建立しました。『上宮聖徳太子伝補闕記』『聖徳太子伝暦』などは秦河勝が聖徳太子に仕えて活躍していたと綴られています。
太秦の由来は、雄略天皇の御世、 渡来系の豪族秦氏(秦酒公)が絹を「うず高く積んだ」ことから「禹豆満佐=うずまさ」の号を与えられ、これに「太秦」の漢字表記を当てました。

「禹豆満佐」の「禹」という文字は二匹の蛇が絡まった象形文字で、蛇の交合の姿態を表現しています。秦氏の首長の墓だったとも。京都市内でもっとも大きな古墳で、全長75mだったそうです。いまでは、石組みの石室しか見ることができませんが。太秦に”へびづか”などという史跡があるのは、秦氏とへびとの関係が深いことが想像できます。

蛇塚古墳

また、中国の殷王朝時代より、更に前の時代である伝説上(諸説あり)の夏王朝の王様の名前は「禹」でした。元々はトカゲなどの爬虫類をさす文字です。

三柱鳥居

三柱鳥居(みはしらとりい)は、鳥居を3基組み合わせた鳥居を言います。
本来は、中央の石組みがあって、本殿の御祭神(天之御中主神)の神座で、宇宙の中心をあらわします。景教の名残だと言われてもいます。秦一族にキリスト教の一団が存在したことを示すということですね。


三柱鳥居



秦氏系の天照系神社に木島神社があり、三柱鳥居があります。本来は「天照御魂神(あまてるみむすびのかみ/あまてるみたまのかみ)」を祀った神社とされます。この天照御魂神は別名、別名火明命(ホアカリノミコト)で、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)でもあります。饒速日尊はスサノヲの第五番目の子で、国を平定した始めの王でもありますが、偶然にもユダヤのダンもヤコブの5番目の子でしたね😀
霧島神社では、「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日尊」という長い名前で祀られてもいます。

ニギ・ヤハヒ

という音から考えてみても、インドの蛇神崇拝と共通点があります。その神名は「ナーガ」Nagaで男性、「ナーギィ」は女性の蛇で、龍神と言われる神体はコブラです。ニギ・ハヤヒには「ナーギィ」が変化した「ニギ」が見えてきます。

さらにニギ・ヤハヒを掘り下げていくと、住吉大社の三神が浮き上がります。

底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命 イザナギが禊(みそぎ)をしたとき誕生した海の神たちですが、古事記では墨江(すみのえ)と書かれる住吉大社(大阪市住吉区住吉町)の祭神です。筒之男のツツは、隼人の古語で海蛇を意味します。阿曇系海神(隼人の筑紫豪族)のトーテム「ツツ」からきています。

三柱のツツ神は、浅いところに入る海蛇、中程の深さの海蛇、深いところの海蛇の三神ということを意味します。住吉大社は、航海の神ということが推測できるでしょう。古代の海神は単純に蛇でした。そして、地祇の火明命(ホアカリノミコト)を始祖とする海人津村連が住吉大社を祀っています。

秦氏と鴨氏

余談ですが、鴨氏と秦氏も強い繋がりがあったことが分かります。
葛城の鴨氏は鴨君と呼ばれ、大国主命の後継を称する豪族でした。大和盆地の豪族のなかで君姓(キミのカバネ)を名乗っています。大和の豪族は、葛城臣、蘇我臣や大伴連、物部連などが多いですが、君姓を名乗っているのは同じ大国主命の後継を自称する三輪君鴨君だけです。君姓は王権から独立した氏族に多い姓だと言われています。オオキミは大王や天皇に対する敬称とすることからキミという称号を名乗れるということは、それなりの地位だったに違いありません。

『秦氏本系帳』には、そんな鴨氏と「鴨氏人を秦氏の婿となし、秦氏、愛聟(愛するむこ) に鴨祭を譲り与う」とあります。秦氏と縁組をしていたということですね。さらに鴨祭はもともと秦氏のものだったことが伺えます。

と、景教と秦氏、キリスト教と蛇神信仰について解説しましたが、秦氏といってもかなり大規模な人口をもつ集団だった可能性もあり、秦氏なのか幡氏なのか百済系なのか新羅系でも違いがあると思います。
つまり、秦氏の中に2系統以上の秦氏がいる可能性があります。ネストリウス派キリスト教も迫害によって長い年月とともに分裂していきました。分裂ということは、考え方に違いがでてきているということです。ケルト人の性格を振り返っても他の宗教を受け入れながら聖地を占領して支配する柔軟さもありましたから、景教、もしくはネストリウス派キリスト教の影響力が増したことで一度、取り込んだ可能性もあるかもしれませんね。

秦氏だから良いもの、景教だから良い教えとは限りませんが、残っている史実をじっくりと見ていくべきだと思います。

しかし、景教が歴史に引き継がれなかったのは時の支配者にとって不都合だったのかもしれません。神学者であるデイヴィッド・J・ボッシュも「しかし、14世紀末までに、ネストリウス派をはじめとする諸教会は、一時は中央アジア全域、さらには東アジアの一部に点在していたにもかかわらず、一掃されてしまった。」と景教への徹底的な弾圧を言い表しています。

追い込まれた景教徒たちは、その時代を生きるのを諦めて来る時代への生まれ変わりを信じて集団自決したともありますので、彼らの無念が報われるときがくることを願うばかりです。

限りある貴重な時間を使って最後まで読んで頂き、ありがとうございます🙇‍♀お陰様で今回も記事を書くことができました。何かしらのきっかけになりましたら幸いです。

宜しければ次回もお付き合いくださいませ。
それでは、また。

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