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2.母の孤独が与えくれたギフト

少し高い所にある窓の桟によじ登って座り、外をひたすら眺めるのが好きだった。電線に集う小鳥たち、友達の家へと続く小道、隣の家の緑溢れる大きな木……そんな目の前に広がる美しい光景に対してある日変な感覚を覚えた。

「これは自分だけが見てる絵。この絵の外にいるわたしは何?」

わたしという存在を幼な心に否定していたのかもしれない。外気の冷たさにかじかんでいく両手の感覚も遠くなった。

しばらくしてから、わたしが窓の桟から降りると、柔らかい陽射しが背中を優しく包み込んでくれた。その心地良さに後押しされながら、わたしはお気に入りの部屋を出た。そして、これまで入ったことのない向かいの部屋のドアをゆっくりと開く。辺りをゆっくり見渡すと、部屋の床には手書きの楽譜がいくつも散らばっていた。ついさっきまで父がいたことを証明するように耳触りの良い音楽が静かに流れている。それがジャズなのか何なのか当時のわたしにはよくわからない。けれど、音の揺らぎが波のように広がっていくその空間から離れたくないと思い座り込んだ。
すると、ひょうたんのような形をした不思議な物体が、部屋の片隅に2つ置いてあることに気が付いた。わたしはそれが何なのかを教えられた訳ではないけれど、すぐに勘付いてじっと見つめた。
わたしはそれらが放っている神聖さに気後れして近付くことができなかった。その上、触れることもしてはいけないものだと子供心で理解した。
それは父のベースとギターだった。
当時両親はライブハウスなどでバンド活動をしており、父はベースで、母はボーカルだった。

ここから、母が父と結婚するまでについての話をしようと思う。母は小学校に上がる前に実の母親、つまり私の祖母が蒸発し、しばらく母親不在の期間を過ごした。その間は、私の祖父が子供三人の面倒を見ていた。祖母と違ってとても優しい祖父のことが、母は大好きだった。小学校に上がる前には、祖母がいなくなりがらんと静まりかえった家で、祖父に側に付いてもらいながら、ただひたすらに漢字の練習を繰り返して過ごした。

その祖父は、母が中学生の頃に病気を患い余命宣告される。それを知らされた母は、夏休みに入ると嵐山のお土産物屋さんで必死にアルバイトをした。稼いだお金で入院中の祖父の好物である甘いお菓子を買い、病院へ届けに行く日々を繰り返した。しかし、母が中学校を卒業する目前に祖父は静かに他界した。
母は、たった一筋の残された希望の光を失った。

その後、住み込みで病院で働きながら定時制の高校に通った。母は英語が大好きで、当時の先生に英語の成績を褒められることが唯一の心の慰めだった。「英語の先生になる」という夢があったが、住み込みの病院の仕事と夜間の高校との両立をだんだんと負担に感じ始め、4年制だった高校の3年目が終わりに近づいた頃、母は退学した。

それからは、働いたお金は蒸発後戻ってきた祖母や叔父たちに取られてしまう苦しい日々が続いた。
それに嫌気が指した母は、地元の京都から離れた所にある音楽学校に通い始めた。

そして、とあるライブハウスで歌う仕事をもらい、そこでベースを弾いていた父と出会うこととなる。

父と結婚すると決めた時、「その彼と結婚するのなら、もう二度と家に帰らないと決めて出て行きなさい!」と祖母に強く言われたが、母はスーツケース一つで実家を後にした。今まで自分を苦しめてきた祖母や叔父たちとただひたすら離れたい一心で家を出たのだ。

こうして愛の欠落による悲しみを抱えたまま目の前の苦しみから逃げるように結婚した母は、やはり同じような苦しみを再び体感させてくれる夫との、空虚な結婚生活をスタートさせた。

私の父は案の定ほとんど家にいない人だった。幼いわたしには当時その理由が分からなかった。母はそれを気にしている様子もなかった。父と母が会話をしている光景も見たことがない。

母は台所に立つと、必ずお気に入りの曲を本気で歌い上げる。聴いていると時々すごく気恥ずかしくなったけれど、そうすることで母は様々な「悲しみ」という感情の解放をしていたのだなあと、今となっては分かる。母は優しい人だったけれど、心の深いトラウマが邪魔をして、人の心を正面から見つめられない人だった。だから幼いわたしといるときも「わたしの心」を見つめたことはなく、どこか別の遠くを見つめていた。

しかし母は、私の弟に対してだけは違った。弟に向けられている感情は、何だか悲壮感が漂うくらい強い依存のような‥執着のような‥とても強く重たいものであり、当時のわたしにはしっかり理解して飲み込むことのできないものだった。
視点を変えて説明すると、恐らくそれが愛情だと強く信じ込んでいるような‥そしてそれにより生まれた深い苦しみを自分に課す必要があるという思い込み、幻想、母なりの「愛の幻想」を背負ったようなものであったと思う。

そんな母に対して、生まれたばかりの弟よりも自分のことをもっとよく見て欲しいと、当時理解力がかなり不足していたわたしは強く願った。

そして、母にただ愛してもらいたいという気持ちと同時に、憧れのような気持ちもあった。母のように上手に歌うことができたなら、弟よりも強く愛してもらえるのかなあ‥とも思った。

けれど恥ずかしがりやで気が小さくて、自分が誰なのかもよくわからず、近所の人に話しかけられるだけでも心臓が強く波打つ。挨拶すら上手にできないことが情けなくてどこかに隠れてしまいたくなるような衝動に戸惑う。そして、私という命が今ここに存在していることが両親にとってはもしかしたらあまり喜ばしくないことかもしれないとうっすら感じていた。
そんな私に歌なんて歌えるのだろうか。
ただ、台所から聞こえてくる母の切ない歌声に、気づいたらいつも心が癒されていた。

そんなある日、わたしはふと母を真似て歌いたい衝動に駆られた。思い切って小さな勇気を振り絞り、囁くように声を出してみた。すると心の底にある悲しみが音の揺らぎとともに遠くへ流されていき、心と喉が大きく解放されていった。

その日から私は、
母と同じように、歌うことを好きになっていった。









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