映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』
初回は、映画館で、二度目はアマプラで、今回もアマプラで鑑賞。
昨年はこの時期、戦争映画特集を自分でピックして観ていた。『野火』『キャタピラー』『ダンケルク』『硫黄島からの手紙』『プライベート・ライアン』『フルメタルジャケット』『ハクソー・リッジ』
どの映画でも、人びとが軽々と踏みにじられる様が描かれている。私は僥倖にもそのような現場に遭遇せずに生きてきた。最近は何故か、以前よりも映画であるとわかっていてもそのような場面を見る度に緊張感が増してきている。無惨なシーンが他人事とは思えなくなる時がある。
『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』でも同じように感じた。「みんなが笑うて暮らせりゃあ ええのにねえ」という、すずさんの義母の台詞が今まで以上に沁みた。市井に生きる人の願いは、ささやかで慎ましい。しかしながら、巨大な力を持つ号令には簡単に抗えず、いつの間にかその号令と一体化することがあたりまえのことになってしまう。その号令に黙々と従って生きるだけであれば個々の人格はいつの間にかひとつになってしまう。
たまたま、先日ボブ・ディランのノーベル賞のスピーチを聞いた。代読したのはパティ・スミス。『私はパフォーマーとして5万人の前でも、50人の前でも演奏したことがあります。5万人の前で演奏するよりも50人の前で演奏する方が難しいと言えます。5万人の人格はひとつともいえますが、50人はそうはいきません。それぞれが独立したアイデンティティと独自の世界を持っているのです。彼らはより明瞭にものごとを知覚することができます。正直さと、才能の極みとの共感度が問われるのです』
これは、政治へのメッセージ。彼は反戦を歌ったことはない、という。授賞式の歌は『激しい雨が降る』。
自分の中にある悪を見つめ続けることが答えのような気になった。そう、ささやかな日常の平和を願う慎ましい人たちであっても罪と無縁ではない。パイが限られているのであれば、常に強者と弱者が現れる。生きるって難しい。すずに共感するのは「ボッーとして生きていたかった』という渾身の台詞。
今日は、東北地方を台風が直撃するという予報、夜には関東に接近する。先日から神奈川震源の地震がちょこちょこ起こっており、本日は台風の影響から交通機関か止まったり間引かれたり、自主避難所が開設されたりの非常事態。映画には、戦後すぐ後の9月に台風に見舞われるシーンがあったのでシンクロした。
厄災はたたみかけるように人を襲う。それでも非常時に家族が肩を寄せ合って生きる姿が心に残った。どんな無残なことがあっても人は生きていく。死んだ人の記憶も胸に刻みながら。
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