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映画『三島由紀夫VS東大全共闘50年目の真実』観た

私の大学時代にはまだ民青の立て看が残っていた。時代的には新人類などと呼ばれ、シラケ世代の更にあと。日本の青年期の強烈なエネルギーが放出されたあとのあとだった。

祝祭のあとの脱力感と虚無。なにかに真剣に向き合うことが軽んぜられる風潮があったように思う。あくまでもマスコミが作り上げた時代の空気だろうけれど。

そして、バブルが始まり、何だかカオスな時代だった。世の中にはキンキラキンな気分が蔓延しはじめたけれど、個人的には、そんな気分にはなれなかった。そして、あっという間に弾けてしまった。

中上健次の小説を読み、全共闘世代に興味を持ったのはその頃だったと思う。遅れてきた全共闘世代からも外れ、シラけた時代を恥じるように思ってた頃を思い出す。全共闘の時代の熱量に憧れてたのかも知れない。

この年になって三島由紀夫VS全共闘を観たのも巡り合せ。

当時の若者の放つ強烈なエネルギーに、三島由紀夫がひとりで真摯に1000人と向き合い討論しようと向かっているのが伝わってきた。オルグしようとするのではなく、自らの言葉で全共闘1000人と対話してた。彼らを包みこんで共に闘う仲間に引き入れようとしてたのか。命をかけた芝居の一幕だっのか。

最初は三島も全共闘の若者たちも決闘の気分で臨んだのだろうが、いつしか両者は互いに同じ匂いを感じ、笑いも出る空気になっていった。両者の戦ってる相手は同じ。だだっ広い解放区を求めてるのも一緒。ただ、立っている位置、場所、生まれた時が違う。

三島の武器は言葉であり、言語表現の結晶である作品。そして、最後に残るのは言葉だと強く信じてる。言葉にとりさらわれた三島。生きた時代や自分を形成した経験からは逃れられないジレンマをも正直に三島は語っていた。

三島はいなくなったが、当時の討論会に加わった芥正彦、木村修、橋爪大三郎等へのインタビューも面白い。三島の側にいた楯の会の面々のインタビューも興味深い。

造反有理の季節。立ち位置は様々にせよ何かが起きると本気で信じて集団で行動を起こせた時代を久しぶりに思いだした。

まだ一作も読んだことのない三島の作品を読んでみようと思った。


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