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【短編小説】「If I Can't Be Yours」(2/3)

 達哉を待ち、絶えず行き交う人波を眺めながら、ぼうっとしていると、美景みかげが突然、僕の左腕に軽く肘をぶつけてきた。ん? と思って横を向くと、美景は声には出さず、行こ、と唇を小さく動かした。僕には何故だか、美景の唇の動きがすんなり読み取れた。え、達哉は。僕が言うと、美景は再び声は出さずに、知らない、と唇を動かし、座り心地の悪いパイプ状のベンチから立ち上がった。
 両耳からイヤホンを外す。今までずっと、さっきの曲を聴いていたのだろうか。続けて、ポケットに入れていたガムの包み紙を取り出し、口の中のガムを吐き出した。美景は僕が立ち上がるのを待つこともなく歩き出し、人混みに紛れ込んだ。僕はリュックを背負いなおし、慌てて美景の後を追った。

 衝動的に歩き出したかのように思える、美景のスカジャン姿の背中が、器用に人混みを縫い、どんどん遠ざかって小さくなる。美景は達哉はおろか、僕のことまで置いて行こうとしているようだった。それにしても一体、美景はどこに向かっているのだろう。周りを見渡す素振りも見せないことから、ある目的地に最短のルートで向かって歩いているように思えるのだが、その目的地にまったく思い当たる節がない。当初の目的の映画館なら、さっきの十字路を左に曲がらなければならず、帰るにしては最寄駅とは反対の方向に進んでいた。僕は今まで尾行と言うものをしたことはなかったが、このままではいつ巻かれてもおかしくはなかった。僕は何かを試されているのだろうか。鬼ごっこのように美景に追いつき、捕まえた、とでも言って、その腕を取ることで、美景から何か褒章がもらえるとでもいうのだろうか。もしそうだとするならば、こちらも望むところだった。僕は達哉を置いてけぼりにするという罪悪感を吹っ切り、感情の矛先を美景一本に絞った。するとどうだろう。今まで鎧を身に付けているかのように重かったからだが、自然と身軽になり、足取りも軽くなった。小走りになり、息を切らせながら、美景との距離を詰める。美景が角を曲がると、全く同じように僕も曲がった。

「…………」
 もうかれこれ、十五分は歩いただろうか。僕はだんだんと、美景の背中を追っているはずなのに、追いかけても追いかけても手の届かない逃げ水を追っているような気分になった。僕は端から、美景の幻を追っているのだろうか。思えば、美景に挿入されたイヤホンから流れ込んできた曲を聴いた瞬間から、僕はどこか夢を見ているような感覚に陥っていた。足元に流砂を感じたのもそうだが、左耳にどろりと流れ込んできたハスキーな女性の歌声に、いつの間にか身も心も浸食されていたのかもしれない。あのメロディーはまさに、揺蕩たゆたう海のようだった。

 唐突に、車のクラクションがけたたましく鳴り響いた。僕は予想外の闖入者に顔をしかめ、思わず路上で足を止めた。何かあったのだろうか。ゆっくりと足を進め、前方の大通りの交差点に差し掛かると、人だかりの隙間から、赤信号の横断歩道の手前で、四、五歳くらいの男の子と母親とみられる若い女性が、その場に座り込んでいる様子が垣間見えた。
 間一髪だったね。驚いたよ。車が走り出すと同時に、男の子が走り出すんだもの。お母さんは手、繋いでなかったの? ああ、なんか携帯いじってたな。子どもは一瞬でも目を離すと、これだから大変よね。でも、怪我はなくて良かったじゃん。目の前で、子どもがかれる姿を目撃した日には、眠れやしないよ。でも、夢に見そう。何、そういう時は酒でも飲んで寝ればいい。なにそれ。余計、悪夢見そうなんだけど。
 母子を取り囲み、あることないことが泡のような呟きとなって交わされる。母親が男の子の手を取り、立ち上がった。そして、結果的に自分たちを取り囲んでいた人だかりを前に、すみません、すみませんと、何度も頭を下げた。僕はそこまでする必要はないのではと思ったが、まあまあ、大丈夫ですか。お子さんも怪我はない? そう、なら良かった。お母さん、今度は気を付けないと。そうよ。だって命は一つしかないんだもの。などと、口々に心配する言葉が母子へと向けられた。
 間もなく、母子の背中で横断歩道の信号が青へと変わった。すると、まるで何事もなかったかのように、人だかりは前進する人波と化し、母子を避けるように横断歩道を渡っていった。再び信号が赤に変わった。川の中洲に取り残されたような母子は、呆然としたまま、その場に立ち尽くしていた。
                               つづく

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