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【小説】「渋谷、動乱」第7話

 ハチ公前広場から4車線の神宮通りを挟み、広場全体を見下ろすことが出来るガラス張りのビルの3階のカフェに、予定より早く仕事を切り上げた美容師の藤堂凌太朗とうどうりょうたろうの姿があった。藤堂が聞いたあの地鳴りからすでに、3時間近くが経過していたが、仕事中も耳鳴りのように、あの地鳴りが反響し続けていた。藤堂は絶対音感を持っていたわけではなかったが、音のことに関して、自分が聞いた音がどこから、何から発せられているのか、同定しないと気が済まないような気質があった。仕事を切り上げた後、藤堂はひとり、それらしい音の鳴る方へとやってきた結果、スクランブル交差点近くにたどり着いたわけだった。

 カフェの席で「聡明コール」を聞いたときは、ああ、もしかしてこれかと一瞬思ったが、午前中にはこのように人は集まっていなかったようだし、よく聞けば、あの地鳴りとは似て非なるものだとすぐに分かった。正体見たり枯れ尾花といかず、見当が外れたかと他を当たることも考えたが、普段見かけない群衆も気になり、ことの様子を静かに見守ってみようと思った。店内にいるほかの客も群衆の騒ぎが気になるようで、窓際までやってきて見下ろすものや、スマートフォンを構える者たちもいた。藤堂は口を付けたコーヒーカップをソーサーに音もなく置き、それとなく隣のテーブルにいた女性客に声を掛けてみた。
「――あの輪の中心にいるのって、箭内聡明ですよね」
 LINEで彼氏の三ツ谷隆史みつやたかしに、昨日の夜、喧嘩の原因になった女友達の小柴美保こしばみほとの電話でのやりとりについて、執拗に問い質していた川崎綾音かわさきあやねは、自分に向けられた男性の声に気付き、スマートフォンから顔を上げた。左を向くと、こちらに顔を向けている藤堂と目が合い、思わず、あ、どうもと会釈した。綾音は内心、誰、このかっこいい人と思った。
「すいません。えっと、何ですか?」
「あの群衆の中にいる男性なんですけど、箭内聡明っていう人でしたよね」
 藤堂が指をさす窓の外を、綾音はこの店に入ってから初めて見た。人だかり。かなりの人だかりが出来ていた。屋外で開催される音楽イベントの野外フェスに頻繁に出掛ける綾音にとっては、決して珍しい光景ではなかったが、確かに、どうしてこの時間にこんなに人だかりができているのか不思議に思った。――そして、箭内聡明。え? 箭内聡明? 自分が高校生の時にDボーイコンテストで準グランプリを獲って、その後しばらく購読していた女性ファッション誌で、何度か表紙を飾っていたことを思い出した。綾音は、当時の箭内聡明のにわかファンだった。
「はい、そうだと思います」
 藤堂は短く伸ばしていたあごひげを触りながら、
「でもなんで、こんなところにいるんだろう」
 と首を傾げた。
「あの、わたしの友達、聡明君のファンの子がいるんで、ちょっと聞いてみましょうか」
 言うが早いか、綾音は女友達の宇野まりあに、箭内聡明について知っていることはないかとLINEで尋ねてみた。すぐに既読が付き、ものの数分で、誰かが箭内聡明についてまとめたサイトのURLが送られてきた。
「なんか来ました」
 藤堂はいつの間にか椅子を移動させ、綾音の隣に腰掛けていた。
「どれ?」
 近距離で聞いた藤堂の低い声に、綾音の耳がわずかにびくついた。綾音は動揺しながらも、画面のURLをネイルが光る人差し指で押し、まとめサイトを開いてみた。
 そこにはウィキペディアと同じではないが、名前、生年月日、出身、芸能人としての経歴、芸能界での交友関係、交際相手の有無、父親の敏正のことなど、嘘か本当か分からないが、ありとあらゆることが書かれていた。藤堂は、綾音が見やすいように自分の方に差し出してくれていたスマートフォンの画面を、自分の指先で下にスクロールさせ、最新情報と書かれていたところに目を留めた。
 
 現在は、マルチクリエーターのvisit氏とスニーカーの自社ブランドを立ち上げ、発表する新作が次々と若者たちの間で流行しているほか、大学の先輩でAI事業を展開するIT企業の清水成彬社長と、自然保護活動にも取り組んでいる。
 
 その下には、山形県の中山間地域で植樹をする箭内聡明の写真が貼りつけられていた。

「これだけじゃ、よく分からないね。でも、若者に人気があるのは確かみたいだね」
「はい、そうみたい、」
 その時、言葉尻をさらうように綾音のスマートフォンが鳴り出した。慌てて電話に出ると、彼氏の隆史からだった。
「LINE送ったのに、なんで見てねーんだよ。またスルーか? 美保とはちょっと車出してって言われたから買い物に付き合っただけって言ってるじゃねーか。何をそんなに勘ぐってんだよ」
「勘ぐってなんかない。っていうか今、忙しいから後にしてよ。隆史、いっつもタイミング悪いんだって。何もかもさ」
 綾音は隆史のぶっきらぼうな声を聞きながら、急激に隆史に対する気持ちが冷めていくのを感じた。ついさっきまで、隆史が美保とのことをちゃんと説明してくれれば、仲直りをしようと思っていたのが嘘のような気持ちの変わりようだった。綾音はいつもそうだった。喧嘩などの衝突があって、2人の関係が糸を張ったようにぴんと張り詰めると、それがいとも容易く切れてしまうのだった。切れてしまえば赤の他人。綾音は、電話口でまだまだ話し続けていた隆史の口をふさぐように電話を切った。
「いいの?」
 藤堂が心配するような表情を浮かべて綾音の顔を覗いた。
「あ、ぜんぜん。それより、聡明君のことでしたっけ」
 綾音は何食わぬ顔で答えた。

 藤堂は、先ほどの電話でのやりとりから綾音の事情をおおむね察し、それ以上深く聞くようなことはしなかった。2人の話題は再び、箭内聡明に戻っていった。藤堂は綾音の隣に座ったまま、自分のスマートフォンで箭内聡明について調べ始めた。何となく、父親の敏正のことも気になっていた。偶然かもしれないが、敏正の出身地は藤堂の父親の実家がある隣の町だった。綾音は急に話しかけてくれなくなった藤堂に、寂しさを感じ始めていた。藤堂に声を掛けられてから15分と経っていなかったが、綾音の心は早くも藤堂に向かい始めていた。綾音は必死で藤堂に話しかけるネタはないかと、インターネット上の箭内聡明の情報を探し続けた。
「あ、これはどうですか。インタビュー記事」
 藤堂が「ん?」という表情で綾音の方を向いた。そして、綾音が自分のことを意識し始めているという自覚もないまま、綾音の方に顔を寄せた。綾音が見せてくれた画面には、経済紙での単独インタビュー記事の切り抜きが写っていた。見出しは「新時代の旗手」。藤堂は自分も昔、そんな風に取り上げられたことがあったことを思い出し、苦笑いをしたが、それは忘れ、インタビューの内容を読み進めていった。
 インタビュアーの新聞記者、宝田芳樹たからだよしきが質問する。
 
 ――芸能活動と並行されて、現在は自然保護活動など、多岐にわたる活動をされていますが、それはどういった動機によるものなのでしょうか?
 
 聡明 自然保護の方は、たまたま先輩に頼まれて。僕は彼ほど運動に関心はなかったんですが、まあ、広告塔でも良いから、ということで引き受けました。そのほかの活動、例えば、若者の政治参加を促すような取り組みは、確かに父親の影響は否定できませんが、自分たち若者の声は、どうすればこの世の中に反映させられるのか、その実験の一環として行っているもの、とこの場では言っておきます。
 
 ――では、今の日本の状況を見ると、若者たちの声は社会にあまり反映されていないと?

 聡明 僕はそう思いますね。芸能活動の方もそうですけど、事務所に所属している手前、自分の裁量権はごくわずかですし、契約内容を変えてもらうこともできなくはないですが、僕一人が声を上げたところで芸能界全体が変わるとも思いません。それは政治、社会もそうだと思います。マイノリティの声は容易にかき消されるのが今に限らず、有史以来続いてきた課題の一つだと思っています。

 ――さらに質問を重ねますが、では、どうすれば自分たちの声が世の中、または社会に届くようになると思われますか。

 聡明 絶対的なパイは上の世代にはどうしたって敵いませんが、数は少なくても、同じ情熱を持った集団として固まれば、僕たちの声は響き合う。そう例えば、動物たちの咆哮になって、嫌でもほかの世代の耳に入らざるを得なくなるんじゃないですか。

 ――そうですか。ここまで長時間ありがとうございました。今後のご活躍も期待しております。
 聡明 はい。ありがとうございました。

 
 藤堂は聡明の言う「動物の咆哮」という言葉に目を、いや耳を留めた。今、目の前にいるあの群衆が、まさにそれを体現としているのではと、瞬時に思い至った。だがそれは、あくまで聡明の比喩であり、具体的に何をどうしようとしているのか、そこまでは想像が追い付かなかった。藤堂は再び、綾音の方を向き、
「名前、聞いてなかったよね。僕は藤堂凌太朗。原宿で美容院をやってます」
 言いながら藤堂は、ポケットの中から名刺を取り出し、綾音に手渡した。
「わたしは川崎綾音。学生です」
「綾音さんか。うん、ありがとう。いいもの見せてもらった」
 綾音はそこで会話が途切れてしまうことが嫌で、
「美容院ですか? あの、わたし、行ってみてもいいですか、お店。今通っているところ、いまいちなんです」
「もちろん良いよ。予約してくれれば、僕が担当するよ」
 綾音は感激した。これはもう運命だと思った。完全に恋に落ちた。
「はい、予約します。絶対行きます!」
 自分でも信じられないような弾んだ声が出ていた。綾音はさらに話を続けようと思ったが、そこで藤堂が、また広場の群衆の方に目を向けたのを見て、しつこい女になってはだめだと自分の感情をなだめ、一歩引くことにした。その時藤堂は、肝心の聡明ではなく、工場で見るような紺色の作業帽子を被り、首を振ってしきりにあたりを伺っていた人物に目を留めていた。
「――ん?」

                               つづく

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