【短編小説】「If I Can't Be Yours」(1/3)

「ねえ、この曲知ってる?」
 左手で頬杖を突き、右頬だけを膨らませながらガムを噛んでいた美景みかげから、振り向きざま、左耳にイヤホンを挿入された。一瞬、視野の左側の景色を埋め尽くしていた人混みの雑音が収まり、聴覚が右耳だけのモノラルとなった。それも束の間、イヤホンの沈黙に乗じて、再び人混みががなり立てる音が、イヤホン越しに左耳に侵入しようとしてきたのだが、それから間もなく、イヤホンの奥から、イントロもなくハスキーな声で英語の歌詞を歌う女性の声が、ねっとりとした液体のように流れ込んできた。        
 メロディーは甘いジャズバラードで、シンプルなドラムとベースが主旋律を奏で、エレクトリックピアノが伴奏を務めていた。耳を傾けていると、心地の良いぬるま湯のようなメロディーとは裏腹に、曲が進むにつれて、からだがゆっくりと、まるで流砂の地中へと沈み込んでいくような錯覚に襲われ、思わず足元を見下ろした。曲が終わる頃には、半身までどっぷりと、曲の魅力に浸かりきっていた。
 ふと我に返り、視線を感じて美景の方を向くと、ずっと僕の返答を待っていたかのように、美景が睨みつけるような目つきで僕のことを見つめていた。僕は美景に問いかけられた言葉を思い出し、右手で左耳のイヤホンを外して首を振った。美景は口の中のガムの香りをほんのり漂わせながら、そう、とだけ呟くと、僕からイヤホンを受け取り、自分の左耳を塞いだ。なんだよ。それだけかよ。と内心思いながら、そう言えば、美景が僕に対して、音楽をシェアしようとしてきたのは、その時が初めてだったような気がした。

 美景は僕の友達の達哉の元カノで、二人が付き合っていた頃は、たまたま会うことはあっても、ほとんど会話を交わすことはなかったのに、不思議なことに、二人が別れてから、よく三人でつるむようになった。その日も僕たちは、午後三時に達哉と待ち合わせをして、小さな劇団に所属する達哉の先輩のMと言う俳優が、セリフのある端役で出ているという映画を観に行く予定だった。言い出しっぺは達哉なのに、時間通りに動かないのは達哉の性格みたいなもので、決して遅刻することはないものの、いつも示し合わせたように、時間ギリギリに到着するのが達哉だった。
 僕と達哉は中学時代からの付き合いなので、だいたいのことは、お互いに知り合っていたと思っていたのだが、美景からたまに聞く達哉の姿は、僕が知る達哉とは、どこか微妙なずれがあった。その証拠に、三人の時は時間ギリギリに現れる達哉も、美景との待ち合わせには必ずと言っていいほど、美景よりも先に待ち合わせ場所に到着し、美景のことを待っていたようだった。恋人のいたことのない僕は、彼女とはそう言うものなのかと驚いた。美景は達哉の時計の針を速めることができるのだ。それも美景から何か指示をしたわけでも、お願いをしたわけでもなく、達哉が自ずとそうしていたらしい。

 二人が別れることになった原因は聞いたことはないが、おそらく振ったのは美景。ただそれも、後腐れのない別れだったのか、達哉が美景と別れたと僕に打ち明けた翌日も、二人はいつものように挨拶を交わし、一緒に食堂で昼食を食べていた。見た目にはまるで変化のない二人の関係に、僕はしばらくの間、本当に別れたのか半信半疑でいたのだが、達哉は確かに別れたと言い、美景も彼とは別れたと、それぞれ本人の口から直接聞いたので、恋人としての縁が切れたことは間違いないのだろう。学生同士の恋愛なんて、公的な紙切れのない口約束で成り立っているようなものだから、僕は二人の言葉を言葉通りに受け取った。
 二人は別れた。なら、美景はフリーと言うことになる。途端に僕の胸が疼いたことは言うまでもない。友達の彼女だからそ知らぬふりをしていたが、僕だって美景に何の感情も持っていないわけではなかった。下心と言われたらそれまでだが、美景のことをひとりの女性として時々見つめることはあった。と言って、美景を見れば見るほど、自分には脈はないことは歴然としていたので、喉の奥から飛び出してきそうになる気持ちは、決して美景には明かさなかった。僕はそれで良かった。結果的に三人でつるみ、美景の隣ではなくても、同じ空気を吸っていられるだけで満足だった。それが僕にとっての、分相応の振舞い方だった。


                               つづく

#小説 #恋愛 #三角関係 #ジャズ #エヴァンゲリオン

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