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自信≒油断というMy Theory

自信とはどこから湧いてくるのであろうか。外向的な人間もいれば内向的な人間も存在する。自分の得意な分野においては、自信とは突如として湧いてくる。何年も放置されたスポンジを絞ると水が出てくることはないであろう。しかし自信とは全くないと思っていても実際には存在することが多い。
また自信がないときに限ってよい結果が見込まれるようにも感じる。
逆に自信があるときに限って足元を救われることもある。自信とは掴み所がない上に意地悪な側面を持つ。


なぜ自信が得られるのか

自信とは、自らを信じると書く。ここでいう信じるとは、心から信じることである。【もしかしたら出来ないかも….】と思ってはいけない。
人間の思考にはコントロール出来る部分も存在するが、不安や恐れなどの衝動的な反応はコントロール出来ない。
不安と思うから不安であるという論理は破綻している。不安である理由は不安だからである。それ以上分割不可能なものだ。自信も同様に擬似的に再現することが不可能である。人間の自信というものが思考の結果ではないことから、風に身を任せよ!!という理論に傾いてしまうのである。

自信を作為的に演出することは可能なのか
私の推測としては、それは可能であると思う。自身の経験則からも、自信を喪失していた人間が、自信家となった例は思い浮かべることが出来る。
このことは自信が先天的なものでないことを裏付ける証拠として有効だ。
自信とは無意識領域によって支配されているにも関わらず、意識的に創出することは可能である。一見このことは矛盾しているようにも感じる。しかし、あるプロセスを踏んで自信を得ることが可能なようだ。

成功体験というものは将来の自信となる。
しかし油断を引き連れた上での自信である
油断と自信は密接な関係にある。互いに拮抗的に働くわけであるが、油断を無くせば自信を得られるという話ではない。
ここで抑えておくことは、自信が無意識であるのに対して、油断の構成要素は怠惰や傲慢などの意識領域であるということである。自信というものに直接アクセスすることは不可能であるが、外的要素を介して間接的にコントロールすることは可能であるという点である。

ここまでは抽象論なので、具体化した例を挙げたいと思う。
私はプレゼンテーションが苦手である。

仕組みを説明したがるためである。

手を抜く[相手の理解は関係ない]

油断という不純物を含ませることで自信が生まれる

自信≒油断なのかもしれない
自信と油断の関係を問うと、きっと多くの人が善悪という軸で話をすることであろう。

本当にそうだろうか…    もしかしたら

自信が現実世界に現れると油断になるのかもしれない



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