[小説] 風船で飛んでった

 香澄が風船で飛んでいった。それが彼、笹島瑛二の、風船を作り続けている唯一の理由であった。
 瑛二は駅から離れた、廃ビルと住宅の入り混じった区画に建っている、寂れた町工場に籠っていた。彼はいつも黒く汚れ、油の匂いの染みついたつなぎを着て、髪は白髪の入り混じっていて長く、賞味期限の切れた乾麺のようだった。人目を気にせず、その格好のまま近所の日用品売り場とか、飯屋に行ってしまうから、住民は眉を顰めて迷惑そうにしていた。しかし彼があまりにも奇抜で、とても会話の通じそうな人ではなかったから、軒先に出来た蜂の巣のように皆距離をとって、追い出すこともせず、ただ二度とこないことを祈っていた。
 周囲の腫れ物扱いするような視線、態度に気づいていたのか、気づいてないか、はたまた無視していたか、毎日頼む鯖定食を掻き込む以外で動かない顔からは、全く読み取れなかったし、人と会話をすることもなかったから、何を考えているのか分からなかった。皆が唯一知っているのは、一日中町工場にこもって、つなぎを黒く汚して、人ほどの大きさの風船を作って飛ばしていることだった。朝、昼、夕方に一回ずつ、規則的に飛ばすから、街の人は空に飛ぶ風船を目印にして生活していたほどだった。
 彼はどんな街にいても浮くのだろうが、住民がそんな彼に強く当たれないのは、彼が話の通じなさそうな伽藍堂だから、だけではなかった。住民の中には、むしろ彼のそういった様子に同情する者も居た。彼は昔から服装に無頓着で人のことを気にしないのではなく、彼がそうなったのは、彼の孫娘が一人で遊びにいった先に行方不明になってからであった。
 瑛二には一人子供がいて、成長し成人を迎えるあたりで妻を亡くした。二人いる子供が就職を機に都会へ出ていった時から、彼は一人暮らしを始めていた。その時、彼は無口ではあったが、人付き合いに難があるわけでもなく、堤防に行って釣りに出かけ、隣に座る人と談笑したりしていた。 
 孫ができてから、瑛二は孫をとても可愛がるようになった。工場にあった機械を孫が来るたびに動かし、顧客がいないのにも関わらず駆動音を轟かせた。町の人々は寂れた雰囲気の中で、場違いに轟く音に苦笑していたが、孫娘を喜ばせようとした瑛二の気持ちを考えて、黙って見て見ぬふりをした。
 工場は買い手がいないほど寂れていたから、子供達から相続が大変だから死ぬ前に一度整理してくれ、と言われていたが、工場を手放せば孫がこんな片田舎にどうしてこようか、と断固拒否した。瑛二が働いていた時より、遥かに工場の認識度は上がり、街の工場といえば瑛二だと皆が口を揃えていうようになった。
 ある日、孫の、今では街の禁句となってしまったが、瑛二の孫、香澄ちゃんが夕方、探検してくる、と言って家を飛び出した。家を出た時、彼女は、車で30分ほどの大きなショッピングモールに出かけた時にもらった、赤い風船を手に持っていた。
 町は過疎が進んでいて、住んでいるのは年寄りか薄汚れた街を愛してやまない偏愛者しかいなかったから、町に強固な連帯感が生まれ、迅速な情報網ができていた。ここ数十年でこの小さな街に事故事件など起こったことなかったし、あってもタバコ屋のおばちゃんが自転車でこけたぐらいで、だから瑛二も、香澄の親も、彼女が探検に行ってくると言って引き留めたりしなかった。彼女は当時、7歳になっていた。
 日がだんだんと沈んで、空に茜色が差し込んできた頃、瑛二はあぐらをかいた膝をゆすって不安を露わにしていた。工場のシャッターを半開きにして、灯りをつけ、いつでも香澄が帰って来れるように待ち構えていた。香澄の親は、そんな瑛二を見て、笑った。そんな、心配せんでも、と不安がる瑛二を宥めて父は新聞を読み、母は台所に立っていた。 
 やがて家全体が不安に呑まれた。瑛二の不安はあながち間違いではなく、根拠のある事実だ、ということに香澄の親も気づいた。沈みかけた日は山の稜線を燃やし、萎みゆく火が、夜の訪れを感じさせた。
 まず、父が探しに出かけた。父は父らしく、冷静を装っていた。これは自分たちの気違いなのだと言い聞かせ、過保護な自分たちを見下しながら、街全体を駆け足で巡った。通り過ぎた住人は、父の姿を認め話しかけようとしたが、並々ならぬ父の表情に怖気付き、彼の邪魔をしないように端によって道の真ん中を譲った。
 なかなか帰らぬ父に、うすら悪い虚構が膨らんで、母はその正体を突き止めるべく、鍋の火を止め、義父に家にいてもらうようお願いし、父の後を追った。住人は暗がりの向こうから走る影を見て、でじゃゔ、と呟き、今度は止めた。
 住人は、静電気を食らったように跳ねた髪と、エプロンを着たままの格好の母に、どうしたのか、何があったのか、と聞く。住人に話しかけられ、母は反射的に踵で急ブレーキを踏んで、止まった。肩を大きくゆすって呼吸を落ち着かせ、ごくん、と唾を飲み込み、ちゃっくちゃ、と口の中を鳴らして、乾いた口で、香澄が帰って来ない、と言った。 
 噂は町中に広がり、人々は家を出て小さな女の子を探した。家の庭、小川に流れる橋の下、側溝、どこを探しても見当たらなかった。時間が経つにつれて、住人たちは堤防に集まり始めた。光をすっかり飲み込んだ、暗い海を見つめる。季節は夏。いくら昼が暑いからといって、日の沈んだ夜にずっと海に浸かっていれば体温が奪われて、死に至るだろう。誰もが、呆然と、そこにいると決めつけたように、暗い海の底を見つめた。
 突然、彼らの足元がライトで照らされた。黒い地面に光の楕円が侵食していった。振り返ると、瑛二がいた。チェックのシャツにジーンズを着て、頭にキャップをかぶっている。瑛二は注目を集めるようにゆっくりと近づいていって、髭と一緒に唇を動かし、夢現といった感じで、言った。
 「香澄ちゃんはぁ、風船で飛んでいった」
 周りの反応はそれぞれだった。ざわめきと混乱が広がり、香澄ちゃんはどこへ行ったのか、と瑛二を無視して同じ問いを繰り返す人々もいれば、瑛二の言葉を受け止め、脚色をつけて勝手に泣き出す人もいた。
 「風船で飛んで行った」
 瑛二はもう一度、突き放すように言った。人々は大勢で堤防に立って暗い海をのぞいているのが、なんだか恥ずかしくなった。瑛二に糾弾されているような気がした。瑛二は踵を返し、ゆっくりと戻っていった。彼の背中が暗闇に溶けた時、人々は解散して、香澄ちゃんはついにいなくなった。
 そこから瑛二は工場に籠り、機械を一新して、風船を作り始めた。毎日破裂音が聞こえるようになり、住人たちは工場の近くを通りかかるたびに非難の目を浴びせた。しかし、瑛二は全く気にすることはなかった。警察が来て、捜索が始まったが、全く手付かずのままに終わってしまい、葬式をする決断ができないままに親二人は町を去って、都市に帰っていった。
 その日、家にいた瑛二が見たものを、誰も知らなかった。それは瑛二だけ見えた真実かもしれないし、瑛二の幻想かもしれない。ただ唯一言えることは、瑛二が「それ」を見たことだ。夜の帷が降りた窓の外に、赤い風船を握って空へ飛んでいく香澄の姿を。
 空という行き先と、風船という手段がわかっている瑛二にとって、あとは実行するだけだった。とても低いハードルのように思われた。しかし問題は風船が瑛二の体を持ち上げられないこと、それだけだった。だから瑛二は単純に、できる限り大きく大きな風船を作った。
 ヘリウムガスをたくさん入れ、一度実験で体にくくりつけた時、少しばかりの浮遊感と共に、大きな期待を抱いた。雲を突き抜け黄金に輝く太陽の光が目の前に見えた。幸か不幸か、風船作りに熱中するあまり、昼に一度、食堂へいって鯖定食を食べる以外、瑛二は食事を取らなくなっていたから、彼の体はみるみるうちに細くなって、軽くなった。瑛二はこれを僥倖と見た。
 一方側から見れば、砂漠の犬のように細くなった体で懸命に風船を作る姿は、現実に目を背けひたすら嘘の願望を追いかける小説家に見えて、悲壮感が漂い、目を背けたくなるものだった。尤も瑛二にとって、それらは路傍の石だったから、ひたすら風船作りに取り組んでいた。

 ある夏の日、瑛二の元に一人の少年がやってきた。工場の少し開けられたシャッターから、小さい体をかがめてやってきた子は、じぃっと瑛二の手作業を見つめていた。瑛二は休憩、と手元から目線を離し、少年の姿を認めると、絵画を見つめるように大きく目を見開いた。 
 その少年は幼児特有の中性的な顔をしていて、膨らんだ頬とアーモンドのような目と、香澄にそっくりだった。香澄に似ているが、確かに少年だと言い切れる、形容し難い、オーラとでもいうべき要素を彼は持っていた。瑛二は香澄が帰ってきたのではなく、知らない少年が勝手に入ってきたことを知ると、興奮も冷めて、今度は敵意を持って少年を睨みつけた。
 「何作ってるの」
 少年は臆することなく一歩歩み出した。成熟した大人のような、腹からでた芯のある声だった。瑛二は物怖気しない少年に眉を顰め、はぁとため息をついて立ち上がり、少年のそばに立った。
 「危ないから入ってくるな」
 「じゃあ離れる」 
 「親はどこに」
 「風船?」
 無理やり追い出そうとして泣かれても困るから、変に威圧をかけることはしなかった。少年は工場の隅に置かれたいくつかの風船を見つけた。
 「余ってるならほしいな」
 「お前何歳だ」
 「5」
 「本当か」
 少年は頷く代わりに手を後ろに組んで、瑛二の顔をしっかりと見つめた。目には少年特有の希望に溢れた輝きと、経験を長年積んだ仕事人の冷徹さが見えた。瑛二は歪な少年を不気味に思い、彼を早く自分の身から遠ざけたく思った。瑛二は少年を素通りして半開きのシャッターに手をかけ、上まで持ち上げた。白い光が工場に差し込む。地面に反射した光が目元を照らす。瑛二は目を細めた。
 瑛二は、少年が一人でこんなところまで来ているなら、通り過ぎた人々が不審がってすぐに親を見つけて連れ戻すように言うだろう、と考えた。実際、瑛二がシャッターを上まで開けると、目の前を通っていた中年の女性がビクッと肩を振るわせ、早足で去っていった。おそらく彼女は少年のことも目に入っていたはずだから、時間の問題だなと思った。
 「勝手にしろ」
 瑛二は少年にそう吐き捨て、彼を無視して作業に取り組んでいった。少年はそれを許可ととらえたのか、わかっていてそうしているのか、自由気ままに工場を散策し始めた。 

 額に汗が滲み、塩分が溶け出して体が萎れてきた頃、瑛二はその日の作業をやめ、立ち上がって軽く伸びをした。視界に入った少年を見て、あぁ、そういえばこいつがいたな、と思った。工場に張り込んでいた光は消え、逆に工場の光が外の道まで照らしていた。少年の親は来なかったか、と思った。少し少年に同情し、彼が未亡人のようなオーラを纏っているように見えた。
 「帰れ」
 少年に憐憫を抱いたことに気づき、少年を自分から引き剥がそうと、冷たく言い放った。隅で風船を手に取って遊んでいた少年は、表情のない仮面のような顔を振り向けた。少年は瑛二が、自分に対して同情心を抱いていること、その感情を押し殺そうとわざと冷たい態度をとっていることを見透かしているようだった。少年は、瑛二のそばに置かれた機械をチラリと見ると
 「風船で空はとべないよ」
 「帰れ」
 言葉が耳に入った瞬間、瑛二の心を埋め尽くしたのは怒りだった。彼は腹の底から炭を砕いて塗りつけたように真黒い声を出した。
 「それ何?」
 少年は瑛二の足元の、腰に巻くバンテージのようなものを指差した。
 「それを体につけて、風船をくくりつけて飛ぼうとしたの?」
 瑛二は頷かなかった。それは少年の指摘が的外れだったからではなく、腹に据えた怒りが彼と話すことを拒絶していた。遥かに歳の離れた少年に、怒りのあまり顔を真っ赤にする瑛二を見て、今度は少年は憐憫を表情に浮かべた。それがきっかけだった。
 「なんだぁ!おめぇは!」
 瑛二は爆発音にも似た怒号を放つと、怒りそのままに少年の元に行って小さな胸ぐらを掴んだ。少年は実態がないかのように軽かった。彼ならば風船をつけなくとも香澄に会えるのではないか、と思った。少年に嫉妬した。少年の体を強く揺すり顔を鼻がくっつくほどの距離まで近づけ
 「でてけらあぁ!」
と言って投げ飛ばした。少年は簡単に投げ飛ばされ、工場の冷たい、粗コンクリートに肌を擦った。頬をやすりで削ったように、皮膚が剥がれた。少年の滑った跡に、彗星の尾のように血がついた。
 はぁはぁ、と瑛二は肩で息をした。地面についた真っ赤な血に少し動揺し、開いていたシャッターを閉めた。しかし、小さい町だったから、瑛二が誰かと小競り合いをしていることは住人たちに知れ渡り、好奇の耳が傾けられていたことを、瑛二はしらなかった。住人たちは、瑛二の喧嘩の相手は熊のような大男を想像して、本当は小さな少年であることを、知らなかった。
 「香澄ちゃんに会いたいんでしょ」
 少年の放った言葉が冷たい金属に跳ね返って、全方向から瑛二に向かう。瑛二は手の震えが止まらなかった。半開きになった口から生暖かい空気が漏れ出る。オイルとゴムの匂いが、とても人工的に思えて、むせた。
 少年の口から出た「かすみ」という三文字は、外国語を聞き真似て無理やり発音したような、意味を伴っていない、空箱のようだった。少年が香澄、と言ったことで、瑛二の頭の中にあった香澄の像が消えた気がした。
 「香澄」
 瑛二はポツリとつぶやいた。それは頭の中に香澄をとどめておくためだった。唇を動かし、喉を震わし、かすみ、と発音すれば、彼女が確かに居たのだと、今もどこかにいるのだろうと思った。
 「かすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみかすみ」
 瑛二は「かすみ」と繰り返した。鍵を何重にも閉じるように、香澄をこの世に閉じ込めておくように、繰り返した。口が渇き、喉が掠れ、血の味がし、痰が絡んだ。それでも瑛二はやめなかった。
 少年は静かに、空気と同化して、見つめた。彼は今ここで、誰よりも大人だった。少年はそれを徒労だと言わず、助言もせず、黙って見守った。瑛二は心地良さすら感じた。瑛二の呟く声はだんだんと細くなり、ついに「み」しか聞こえなくなった。少年は瑛二の肩に手を乗せた。肉はそげ落ち、角張った骨が肌を貫いて表に出たような、冷たい肩だった。
 瑛二も、少年の冷たい手を肩に感じ取った。それは彼が、妻以来に感じた、死だった。
 突然、瑛二の腹の底から叫びのような痛みが湧き上がった。ひび割れた地面から腕を伸ばして地上を望むような、冷たい海の中で息を吸って肺を塩で満たすような、生きることへの痛みだった。瑛二は足指に力を込め、地面を踏み締め、肩に触れる少年の手を握り、強く強く力を込めた。少年は黙っていた。
 瑛二は少年の手を握ったまま手を引いて、隅にあった風船を彼の華奢な体に巻きつけた。何重にも紐をくくりつけ、少年の体は次第に地面を離れた。瑛二は彼にその辺にあった鉄屑で錘をして、シャッターに向かって歩き、全開にした。そこには騒がしい工場での一部始終を聞こうと、町中の人が道に群がっていた。
 瑛二の姿を確認すると、蜘蛛の子散らすように人々は退散した。瑛二は彼らに憎悪を抱かず、ただ風景を眺めるように無表情だった。工場の中に戻り、錘をどかして、少年の手を引っ張る。シャッターをくぐり、紐を引いて風船を外の真っ暗な空に浮かせた。
 瑛二に手を引かれ、外に出て体を宙に浮かせた少年は少し驚いた表情をした後、イタズラっぽく笑うと
 「ばいばい」
と言った。
 瑛二は黙っていた。初めて子供のような表情を見せたな、と瑛二は少年にそれ以外の感想を持ち得なかった。瑛二は少年を持つ手を離した。少年も手を離した。香澄が空へ飛んで行ったように、少年も暗い空の向こうに飛んで行った。
 瑛二は暗闇に溶けた少年を見届けると、工場に戻り、鋸を手に取り、残った一つ一つの風船めがけて振り下ろし、全てを割った。パァン、パァン、と耳に響いた。割り終えると、落ちたひとかけらを手に取り、口に含んで咀嚼した。当然、ゴムの味がして美味しくなかった。瑛二はプッと吐き出して残りのクズを袋に入れて捨てた。口にはゴムの味が広がっていた。腹には痛みがあった。瑛二は早く寝ようと思った。明日は釣りでもして、魚をとって、食べよう、と思った。
 
 
 

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