すべてが創造場のなかに存在しているもの。
昨夜寝ている時、とても幸せな感覚になり浸っていると、『他の人』は源なんだとストンと入ってきた。
他の人のことって全部を知ることができないし、理解することはできない。
その人の一部を見たり、知ることしかできない。
それをみて、その人だと決めているだけで、
全部は分かってはいないし、見えてもない。
それって、源と同じだ、、と。
創造場、源は
人間の頭では理解できないもの。
だから理解できない他の人も、源なんだと。
だから、その人をすべて知ることはできないし
変えることもできない。
その人の全部なんて分からないものなんだ、と。
源の一部だから、そのままで完璧で、
完璧な絶妙なタイミングで、
目の前に顕れている存在なのだ。
自分もそう。
状況もそうなんだ、、と。
朝、目が覚めた時
自分が創造源だという感覚になり
目の前の人もモノも源の一部だという感覚になった。
それは、完璧なタイミングで私の周りに顕れている。
個として捉えることで、人はその人のすること、言うことなどにとらわれるけど、
源の一部なんだと見えたら、それで完璧なんだと思える。
創造源は、人間の頭を遥かに超えた意識場だから。
すべて、それで完璧なもの。
個の自分も一部のもの。
自分のことでさえ、わからない。
時々、自分の姿が分からなくなることがある。
どんなのが自分なのか。
どの姿が自分なのか。どれが自分なのか、と。
昔の自分も、あれは本当に自分なのかもよくわからないし、思い出す自分が、本当にその自分だったかも分からない。
昨日の自分も、あれが自分だったのか?
今、この自分が、とりあえず自分だという認識はあるけど、記憶のなかの自分は、自分だと掴んでいられない感覚。
自分は自分のことを知らない。
他の人のことが、源のなかのピースだとすっと肚に落ちたら、
自分のことも源のなかの一部っていうことが、すとんと肚に落ちた。
だから、今のこの自分は、いつでも、どんなでも完璧なものなんだということ。
個の相手や個の自分に向けてると、なかなかこれが完璧だとは思えないけど、
すべてが源のなかの一部なんだという視点に立つと、自分も目の前の人も状況もモノも、完璧なんだと見えてくる。
人間というのは、意識の視点のスイッチのオンオフがあるんだな。そういうものなんだな、きっと。
個の視点と源の視点の切り替わりスイッチ。
気づきや悟りって、自分で起こせないもの。
個の自分ができることは、
ハッと、気づいた!ということを認識するだけ。
パッと、わかったー、ということを認識するだけ。
ある瞬間、視点が切り替わる。
人間は、優劣はない。
同じ元から同じメカニズムでできてる。
いいも悪いもない。おんなじ。
そういうものなのだ。
源は、個の自分が、私は源だというスイッチをオンにしてるから、目覚めてる人間が増えているのだろうなぁ。ほっといたら目覚めてしまう。
すべてが創造の意識場のなかの一部でしかないのだと、完璧なのだとみえると、
個々のやることはなんでもよくなる。
それで完璧なものだから。
感じたままに動けばいい。何をしててもいい。
今の自分で、調和してしまう。
自分も調和してしまう。
何してても調和に向かってしまう。
豊かになってしまう。
人間は、創造の源の顕れだから、
目覚めたら、その創造の源の無限の意識、無限の可能性、無限の能力がでてしまう。
騙すことも支配もできなくなってしまう。
目覚めないようにするしかない。あの手この手で。
人間の脳も宇宙であり、無限さを持っている。
世の中の流れが決まっているなら、そこにとらわれるよりも
自分は無限の源の顕れなのだ、という自覚を持つことで、自在でいられる。
読んで下さりありがとうございます。
美鶴 mitsuru.🙋🍎