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第15回「自然な形での死の過程を経ていくと、その人がエネルギー体になっているというか、肉体よりも違うところに入っているような、そんな感じがしてきます。」賀村 仁美 氏

賀村 仁美(かむら・ひとみ)氏

1971年生まれ
藤田保健衛生大学医学部医学科 卒業、同病院で研修
九州・名古屋の病院とクリニックで内科医師として病棟や外来を担当。現在、東京のクリニックで外来と在宅医療を行っている。

テンプル――
賀村さんとは、私の八ヶ岳プロジェクトの集まりを企画したとき初めてお会いしました。そのとき、医師として終末期医療に携わっているとお聞きし、ぜひお話をお伺いしたいとインタビューを申し込ませていただきました。まずは簡単な自己紹介をお願いできますか?

賀村――
賀村仁美です。一般内科という形で外来を受け持ちつつ、個人宅やサービス付高齢者住宅や認知症のある高齢者グループホーム施設の往診をやっています。私が所属しているクリニック全体で150~160人の患者さんを診ています。そのうち個人宅への往診に伺っているのが50~60戸くらいです。

テンプル――
介護や看取りのお話をお聞きする前に、賀村さんがお医者さんを目指されたキッカケなどをお話いただけますか?

賀村――
実は、医者になったのは特に高い志があったわけではないんです。高校も文系に進んでいました。ただ父から『これからは女性も一人で生きていけるよう手に職をつけたほうがいい、これから世の中がどう変わるか分からない、日本は平和で戦争が起きないと言われているけれど、どういう状況になるか分からないぞ』という教えがありました。そういう父と何度もぶつかったんですが、最終的に医学部のチャレンジをしてみようと思うようになりました。

実のところ私はそれほど勉強が出来たというわけではなかったんです。文系にいましたし・・・。それが高校2年の夏に急に理系に変わることになり、数学の微分積分なんか赤点で、これはヤバイと。ただ高校は3年間を通してずっと無遅刻無欠席だったという土台もあり、推薦枠で大学受験が出来たんです。

私の学年では2人医学部に進学しました。2人で合格を学校に報告しに行ったとき、もう1人はもともと成績も良かったので、彼女は校長先生に「良かったね~、合格は分かってたよ~」と言われ、私は「分かんなかったわ~、まぐれね~」と言われたほど、先生方もまさか私が受かるとは思っていなかったみたいです。

それに入学した後はやはり大変でした。大学2年までに学ぶ基礎的な化学や物理などの授業が全く分からず、廻りの友達に本当に助けてもらいました。

テンプル――
同じ理系、医系に進むにしても、薬学部や看護科に進むという選択肢もありそうですが、超難関でもある医学部を選んだのは何故だったんですか?

賀村――
父の中では、同じ理系、同じ医療系の中でも医師は人生の道としてもいいのではないかという思いがあったみたいです。それに負けん気の強い娘なら、なんとかするだろうという見込みもあったようです。

テンプル――
医師になったあと、現在のようなターミナルケアを専門とする医師になられたのは何かキッカケがあったんですか?

賀村――
本来、私は内科の外来オンリーで診療をしたかったんです。外来専門は時間内に終われますし、夜間の診察もなく、身体に負担なく仕事を続けていけるだろうと思っていました。

東京に出てくるまでは名古屋で働いていました。その頃、お薬を出してもどうにもならない不定愁訴の患者さんがいらして、どうすればいいんだろうと東洋医学に着目するようになりました。それで漢方を勉強し始めたんですが、東京では様々な漢方の講座があり、トップの漢方医から直に学べる機会が多いこともあり、では東京に行こうと。

東京で働き始めましたが、働き始めて3日目くらいのとき、当時のクリニックから「来週の土曜日にグループホームの説明会がある。本来は他の先生が担当だけど医師として出席だけしてほしい」と頼まれました。座っているだけならと参加したわけですが、セミナーのときに「往診と在宅診療を専門にやります賀村先生です」と紹介されてしまいました。事前の説明もなく、そんな紹介を突然されてしまったんですが、目の前には入居者の家族の皆さんがいらっしゃいます。なので「いえ、違います」とは言えず「賀村でございます。グループホームの皆さんを2週間に1度診察をさせていただきます。どうぞよろしくお願いします」とご挨拶をせざるを得なくなりました。

そんなことがきっかけで、在宅に関わるようになったんです。今から約5年くらい前のことです。

それまでは、外来専門を前提に考えてきたので、最初のころは実はとても大変でした。まさか在宅医療をやることになるとは予想しなかったので・・・。肉体的に辛いこともあって、パートナーにもずっと愚痴をこぼしていました。

テンプル――
神様の計画は分かりませんねぇ。そもそも医学部に入ったところからその計画はスタートしている気がします。そんな賀村先生が在宅医としての喜びを感じ始めるようになったのはいつ頃からなんですか?

賀村――
2年くらい前でしょうか。ある患者さんを自宅でお看取りさせていただきました。後で、お嫁さんからお手紙をいただいたんですが、その手紙を読むと、私が試行錯誤しながら、悩みながら伝えてきたことが、とてもご家族には大切なことだったんだということが実感できたんです。ご家族を支え、不安を安心に切り替えるものになっていたんだと。

それまでは『いいのかなぁ、大丈夫かなぁ』と試行錯誤の連続で・・・。あとでお話させていただくビジョニングも、患者さんやご家族に言ってもいいのかどうか、自分でも経験値が低かったこともあり、すごく不安で確固たる自信もありませんでした。そんな模索中にお手紙をいただいたので『あ、これでいいんだ』という気持ちになれたことが大きかったと思います。

変なことを言ってもこの先生だったら大丈夫そうって言われるのも支えになっています。

テンプル――
変なことというのは・・・?

賀村――
例えば「死ぬことがそんなに悪いことなのかなぁ」と言ってみたり。

テンプル――
スピリチュアルな話をしてもこの先生なら大丈夫という認知が患者さんやご家族に広がっているんでしょうかね。スピリチュアルなことに触れられるようになったのは、東洋医学を学んだことがきっかけになったんですか?

賀村――
東洋医学の前にホメオパシーも学びました。そのことによって、人間って肉体レベルだけではなく、見えないエネルギーとも繋がっていることを強く感じることができました。ホメオパシーを学んだことで世界のいろんな代替医療の情報が入って来やすくなり、世の中を面白い視点で見られるようにもなりました。もともと、子どもの頃から見えない世界はあると思ってはいたんです。

テンプル――
今のクリニックでは、見えない世界を話題にしても大丈夫なんですか?

賀村――
まだそんなに言えないですね~。ホメオパシーを学んだことも言ってないです。

テンプル――
おっと。ここでカミングアウトしても大丈夫なんですか・・・!?

賀村――
大丈夫だと思いますよ。少しずつ見えない世界のことを話題にできる環境が整い「それもあるよね~」と話ができるスタッフ達が集まってきていますから。

テンプル――
ホメオパシーはどういうキッカケで学び始めたんですか?

賀村――
自分の体調を崩してしまったことがあったんです。忙しかったということもありますが、医療現場で起きてくる色んなことを自分が受けきれなかったんでしょうね。最先端の技術で人を助けるためにやろうとしていることでも、クエスチョンがつくことがやはりあるわけです。自然ではない状況というか。自分の内側に葛藤があるなか、肉体的にも精神的にもかなりハードな環境で仕事を続け、また個人的な出来事も重なりで、体調を崩してしまいました。

もうこれ以上は無理、自分の身体を立て直さなければと思ったのに西洋医学のクスリは飲んでも治らない。しかもクスリを飲むと七転八倒するくらい胃がおかしくなる、という状況で『では自分には何が必要なんだろう、何が不必要なんだろう』と思って様々に探し始めました。そんな時、本屋の家庭の医学の棚の前で目をつむって『どうか自分に一番必要な本、自分の身体を治す治療法を教えて下さい』と本の背表紙を触っていき、ピタッと手が止まったのがホメオパシーの本だったんです。

テンプル――
え~!? それがホメオパシーとの出会いなんですか。

賀村――
それでホメオパシーに興味が沸き、本を読んで自分にピッタリのレメディを探してインターネットで注文しました。それは蛇の毒のレメディだったんですが、飲んだらアッと驚くような現象が起き、これは面白いと思いました。その後あらためてホメオパシーのセッションを受け、自分に合ったレメディを処方されました。そのレメディを飲んだところ、変な話、おしっこの臭いが以前飲んでいた西洋医学のクスリの匂いで、すでに飲まなくなって数ヵ月以上も経っていたのにビックリしました。『クスリの影響がまだ身体に残っている?!溜まってる?』と驚きました。その後、身体が少しずつ楽になっていきました。

西洋医学とは違うアプローチで面白いように自分が変わっていく実感があったことから自分でも学ぼうかなと。ただ、日本はホメオパシーを医療の現場で使える環境ではない。でも西洋医学のクスリだけでは到達出来ないこともある。それだったらと漢方を学び始めたんです。今は保険でも漢方のクスリは出せますし、勉強会もきっちりしています。だったら漢方はいいかなと。

テンプル――
名古屋ではずっと内科医だったそうですが、ターミナルケアと通常の内科医とでは、大きく変わることはありますか?

賀村――
一番の大きな違いは受け止める人の数でしょうか? 外来では相対するのは患者さんと1対1です。再診も1対1です。ところが在宅のターミナルケアの場合には、言い方が適切ではないかもしれませんが、私はアウェイに出向く立場になります。そこにはご家庭があり、日々の生活があり、人生があります。私が担当するのは患者さん一人ではなく、その背後には奥様や子どもさん、お孫さん、ご親戚などがいらっしゃいます・・・。その中に入っていくことになるわけです。思いも、患者さんお一人の思いだけではなく、ご家族お一人お一人にそれぞれ違った思いがあり、それも受けとめる必要があります。

最初からそれは『しんどい』ということが分かっていました。でも在宅医療に関わり始めた頃は、家に帰ると私の身体が動かなくなるくらい疲れました。帰宅後、疲れた~と横になると、もう動けない。それくらいエネルギーを消耗していました。1対1の関係は真剣ではなかったということではなく、1対大勢は全く違いました。

テンプル――
その大勢も、意見が同じであればいいでしょうが、ご家族それぞれが違う意見のこともありますでしょうしね。

賀村――
それは多いです。でも一番大切にしなければならないのは、患者さん本人がどうしたいのか。遺されるご家族が受けてしまうであろう思いをどれだけ軽くできるか。私たちがどれだけ不安を安心に変えることができるか。そこはとてもエネルギーが必要になります。

大きな病院を退院し在宅ケアに入っていくときに、その流れがうまく行ってない方もなかにはいらっしゃいます。在宅になったとき患者であるご本人が医療に対する希望がもてない・・と思っている場合、その中に入っていくのはとても大変です。目には見えないけれどもエネルギーはとても使っていると思います。

テンプル――
そういったとき、ご自身を保つ方法を何かお持ちなんですか?

賀村――
試行錯誤でしょうか。そして、パートナーが見えない世界のことを分かってくれる人なので、私が本当にまずい状態になったときには山に連れ出してくれます。確実にタイミングよく。彼に引きずられながら山に行きます。

テンプル――
自然のなかで自分を取り戻していく、という感じでしょうか?

賀村――
そうですね。自然界のエネルギーや周波数がいいのかもしれません。普段でも家に帰ってパートナーにその日にあった出来事を話しながら、自分でいろんなことを整理しているようです。次はこうしようと自分の中で練っているというか。時々パートナーがそれに耐えきれなくなっているようです(笑)。

テンプル――
パートナーがしっかり賀村さんを支えて下さっているんですね。ところで、賀村さんの毎日はどんなタイムスケジュールなんですか?

賀村――
だいたい朝8時40分頃までにはクリニックに入り、前夜から入っている連絡やFAXに目を通して9時から外来が始まります(2014年3月時点)。基本的に午前中は外来で午後は往診。時には外来と外来の隙間をぬって、あるいはお昼休みに往診に行くこともあります。お昼を食べながら院長の話を聞いたり、様々な用事が入ることがあるので消化にはとても悪い食事ですよね。時にはお昼を食べる時間が取れなかったり、食事の時間が5分ということもあります。往診から戻ると会議があったり、訪問看護ステーションの看護師さんたちとカンファレンスがあったり・・・。

テンプル――
1週間夏休みを取って旅行、なんてことは出来るんですか?

賀村――
休暇は取れないですね~。先日の金曜日、初めて有休を使って木~日の4日連続休暇を作り伊勢に行きました。『ここだけは休みを取らせて下さい』という感じで、現在は外来と訪問診療とが混在しながらの仕事をしています。

テンプル――
お疲れ様です。話をターミナルケアに戻しますが、ターミナルケアとは一言でいうとどんな医療なんでしょう? 在宅診療=ターミナルケアという感じですか?

賀村――
在宅診療のなかには脳梗塞や脳出血で麻痺がある方、自宅で胃瘻をしている方、関節炎や脊椎の圧迫骨折で外来に来られない方、認知症が酷い方、老衰の方もいらっしゃいます。基本は『一人で外来受診が出来ない状態の方』が対象の患者さんです。ディサービスやディケア、通所リハビリ、訪問リハビリを活用しながら住み慣れたご自宅で機能回復に努めている方もいらっしゃいます。

ターミナルケアというのは末期の方への医療をいいます。延命のための治療よりも身体的苦痛や精神的なケアを行い、残された人生を充実させることを重視しています。また、ご本人さんだけではなくご家族含めてのケアが必要な医療だと思っています。

テンプル――
ここで診療報酬のことをお聞きするのは適切ではないかもしれませんが、お医者さんが患者さんと話をするのは、3分であろうと1時間であろうと診療報酬は一緒だと聞いたことがあります。しかし、ターミナルケアの場合にはじっくり患者さんやご家族の方々と話すことが重要になってきますよね。報酬が一定なら、患者さんと時間をかけて話をすればするほど報酬的には報われないことになってしまいますが、そこはどうクリアされているんですか?

賀村――
診療時間加算といって訪問診療が1時間を超えた場合には加算されます。特別な勉強をした医療従事者が癌の方への精神的ケアを行った場合には加算される、ということもあります。ただ、ターミナルの、しかもかなり末期のご家庭に行くと30分、40分が平均。最初の頃は1時間はたっぷりかかります。訪問診療の予定を組み立てていても、途中ターミナルの患者さんが緊急で入ると、その後の方はなかなか予定通りには廻れなくなります。時間を超過してしまうことが多いので。

テンプル――
ターミナルケアに関わって良かったなと思われるときって、どんな時ですか?

賀村――
ご家族の方が最後まで落ち着いて、ご自宅での看取りという大仕事をやり遂げた、人生の大先輩を無事に送り出せた。そういった達成感のようなものをご家族から感じたときには『あ~良かった』という気持ちになります。

テンプル――
病院でのターミナルケアと在宅のターミナルケアとは違ってきますか?

賀村――
病院でもご家族が最後駆けつけて看取りをする、亡くなられたのを確認する行為は同じなんですが、その場に流れてくる、なんとも言えない感覚が違います。感覚という言葉しか思いつかないんですが、ご自宅のターミナルの場合の感覚は温かいんですよね。家族がじっくりとご本人さんが亡くなっていくということを受けとめてお別れが出来るので、涙は流されるんですが『この人生よく終えましたね、お祖母ちゃん』という温かさがあります。といっても、病院は冷たい、ということではないんですが・・・。

テンプル――
想像すると聞こえてくる音が違いますよね。病院のガチャガチャという金属音ではなく、ご自宅だったら料理をする音があり、家族の音があり、そしてお味噌汁の匂いがあり・・・。そういった生活の音や香りがありますよね。

賀村――
そうですよね、そういった生活の音の中にいるということは患者さんにとっては安心できることですね。猫がいたり、犬がいたり、好きなモノに囲まれて・・・。

テンプル――
人肌があるところ、肌感覚があるなかで亡くなるわけですから全然違いますよね。

賀村――
コレという具体的なことは言えないんですが、感覚的に言えば、ご自宅での看取りはご家族皆さんが納得して死を受け入れ、かつ送り出すという感覚がある。片や病院では、死を受けとめることで一杯一杯になっている・・・。その差はあるかなと思います。

ご自宅で看取るために、事前にご家族には、人はどのように亡くなっていくか、その説明をしっかり行っています。例えば下顎(かがく)呼吸とか。呼吸状態が悪くなっていけば周りはとても不安になります。苦しそうだと。でもそうじゃないんだということが分かっていれば安心できます。

テンプル――
ご家族にはどのように死に至る過程を説明されているんですか?

賀村――
エリザベス・キューブラー・ロス博士やデニー・コープさんの本を活用して説明書を作りました。

末期になると食欲がなくなっていく。それは何故かというと、身体にエネルギーが必要ではなっていくから食べるものも少なくなっていく、それは自然なことですよ。呼吸の変化も、こういうふうにゆっくりと呼吸が変わっていきますよ。また呼びかけにも反応がなくなっていきますが、それは反応するエネルギーがだんだん小さくなってきているからなので、意識が全くないということではないですよ、ちゃんと聞こえていますよ。だから呼びかけてほしいし、好きな音楽はかけてあげて下さい。最期、うなり声とかうめき声が出たり、溜まった痰が喉でゼーゼーと音をたてたりするけれど、すごく苦しいというわけではないので大丈夫ですよ。そんなことを説明しています。

テンプル――
周りには苦しそうに見えますものね。

賀村――
公開講座などでも「先生、本当に苦しくないんですか?」と聞かれることがあります。私も死んだことがないので100%とは言い切れませんが・・・。

テンプル――
人間の身体のシステムとして、人生の最期はそれほど苦しみを感じないよう作られているのかもしれませんしね。

賀村――
名古屋の医師で、もうお亡くなりになったんですが本を書かれている先生がいらっしゃいます。ご自身が脳梗塞と心筋梗塞に罹って死の淵に到達したような時に、スーっと意識が消えていき、ものすごく気持ち良かった。そういう経験をもとに調べていくと、戦時中に弾にあたったときに『あ~、と解放された感じがあった』と言っている方がいる。海外で死について研究をされている方の本を読んでみると、死に際しては非常に暖かく安らかで何の苦しみもなかった、そんな経験を持って生還された人がいる。それを読んで『あ、俺はこれを経験したんだ。そうに違いない』と、周りから見て苦しそうだと思われていても、あの感覚やとても安らかで穏やかで苦しみはない。そういうことを書いていらっしゃいます。

日本の有名な文豪の方々が、たとえば吐血をして生死を彷徨った経験をしたことを文章に残しているそうなんですね。なんと心地のよい状態だったであろうか、これが続けばという思いもあったということを書き記しています。

テンプル――
本人が心地良い経験しているとき、そばにいる人には苦しそうに見えた、ということですか?

賀村――
そうですね。あと吐血もすごい状況ですよね。そんなときでも本人は気持ちが良かった、吸い込まれていくような感じがあった。そういう本を最近読みました。

テンプル――
事前にご家族の方に知識があるととても安心されますよね。

賀村――
そうですね。その時期が近くなったら、私や在宅看護の看護師さんが「いま、こういう状態ですよ、呼吸はこうですよ」とご説明します。ご家族から「ほとんど何も食べていないのに、今日はこんなにウンチが出ました。3回も出たんです」っていうときには「身体がもういらないものを出しているからなんですよ、お腹の中を空っぽにしているんですよ」と。そういったことをご説明しています。

テンプル――
自然な死の過程のなかには『お腹の中のものを排泄する』という過程が含まれているんですね。

賀村――
出てきますね。食べていないのに、大量の排泄がある。

テンプル――
私の母は、亡くなる前の8か月間は何も飲み込むことができなくなったので、ずっと点滴だけだったんですが、最初、凄かったようです、便の量が。何も食べてないのに何でこんなに便がでるんだと本人がとても驚いていました。その後8か月間生きましたが。

賀村――
そうやって自分の身体の中をクレンジングしていくんですね。自分の身体をきれいにしたあと亡くなっていく。そんなシステムがあるんだなと思います。

テンプル――
素晴らしいですね、身体のシステムは。そうやって少しずつ少しずつ身体の中のスイッチをOFFにしていくんでしょうね。

賀村――
そうですね、そんなことをご説明するための冊子をうちのクリニックでは作りました。これはご家族からお手紙をいただいたことがキッカケで作りました。これをもとに、不安感から安心感に切り替えていただくようにしています。

テンプル――
ご家族にも力強いサポートになりますよね。そんなお話はご本人にもされるんですか? 今身体はこの段階ですよと。

賀村――
それはとても難しいところがあります。いろいろ話をしながら信頼関係を作っていくなかで、こうだね、ああだねと少しずつ話をするという感じでしょうか。

テンプル――
ご自身の死を受け入れる準備が整っている方と、そうでない方といらっしゃるでしょうしね。

賀村――
ご家族のほうがしっかり受け止めて、ご家族から本人さんのサポートをしていただくこともあります。またターミナルケアの場合には訪問診療だけではなく、訪問看護ステーションの看護師さんが大きな役割を担っています。癌の末期の患者さんですと1週間に1回ドクターが往診に行きますが、訪問看護師さんは1週間のうち3回ないしは毎日お伺いすることになります。週に1回入るドクターより毎日顔を見て、毎日状態を確認し、毎日言葉を交わしている看護師が「いま、お腹痛いよね、うんちいっぱい出てるよね。お腹をきれいにしているんだよね」って言葉をかけていくことで、ご本人さんもご家族も理解が進むのかなと思っています。

看護師さんも私たち医師も同じ方向性を持ってやりましょうと、訪問看護ステーションの看護師さんたちとカンファレンスを持ちながら「今この状況でこの段階ですね、いまやっていることは間違ってないよね」ということをお互い確認しあいながらやっています。

テンプル――
数年前、お客様から「ずっと寝たきりだった父親が1か月くらい前からゴハンを食べなくなった、1週間くらい前からはお水も飲まなくなった。どうしたらいいですか?」と電話をいただいたことがあります。「どうしたら?というのはどういうことですか?」とお聞きしたら「どうしたら元気になりますか?」と。「それはお父様が望まれていることですか?」と。

何年も寝たきりの父親に対して、寝たきりでもいいからずっと生きていてほしいと思うご家族に私は感動すら覚えたんですが、一方でお父さんはもう逝かれる時期が来たんでしょう、逝かせてあげましょうよとも思うわけです。どんな形であれ、寝たきりであっても生きていてほしいと願うご家族に私は何が言えたのか、今でもよく分かりません。

賀村――
そういうことはよくあります。そういったときにはご本人さんが本当はどうしたいのか、元気な頃に何か話されてなかったか。「俺はポックリ逝きたい」「延命は止めてくれ」と言っていたのかどうか、自分の亡くなり方について話をしていたかどうか聞くようにはします。

ゴハンを食べなくなった、水も飲めなくなった、ではどうする?点滴ではなく胃瘻をする?その流れのなかで、ご本人はもう話せなくなっている、ご家族はやってほしい。お父さん、お母さんが、もし、いま、言葉が話せたとしたらどう言われるでしょうかね、どう意見されるでしょうかねと、そういうふうにお聞きします。

ご家族の気持ちもよく分かります。もう1日生きていてほしい。笑顔をみたい。たとえ笑顔がなくても自分たちが支えたい。そういう思いがあるのも分かるんですが、いったんそこで、ご本人さんがもし喋ることができていたなら何て言われたでしょうねと。その上で、ご家族の意見としてご家族が一致して、少しでも長く生きてほしいと言われるのであれば、胃瘻や点滴という方法を取ることがあります。

テンプル――
在宅でのターミナルケアに入られた方は、ご本人さんやご家族の方々は、もうあまり先が長くはない、すでにターミナル期に入っているという覚悟はお持ちなんでしょうか?

賀村――
在宅ターミナルに入られた場合でも、最初からターミナル期にあると覚悟ができているご家族はパーセンテージとしては本当にごく僅かです。

テンプル――
ご本人が少しずつ弱くなられていくその過程を実感することによって、少しずつご本人もご家族も死の過程にあることを受け入れていく、という感じなのでしょうか?

賀村――
本当の癌末期になってくると、死までの日数は週間単位です。退院した1週間後にご遺体のご確認ということもあります。月単位になったとしても1ヶ月ちょっと、ということもあります。そういう短い週単位の方、月単位ながら数か月の方といらっしゃいます。

癌末期で期間の短い方というのはご家族も大変です。『始めまして』と挨拶を交わしたときから、ご家族がどう受けとめているか、ご本人がどう理解されているのか。その本音の部分を引きだすことは初日から心がけています。ご家族がどんな思いなのか、ご本人さんがまだ喋れる場合にはご本人さんの話を少しでもいいので聴き・・・というふうに、残された時間が短ければ短いほど濃密な時間が必要です。

そして私達も短い時間の中で悔いがないよう最期を送りたいと思っていますので、俄然(がぜん)みんな熱くなります。

テンプル――
賀村先生にお勧めいただいた『看取り先生の遺言』の本には、癌でさえ最期を自宅で迎えられるということが書かれていましたが、私達は、癌は病院で亡くなる病気だとなんとなく思っていますよね。癌患者さんの場合、自宅での看取りはやはり難しくなりますか?

『看取り先生の遺言』

賀村――
病院で検査を受けて自分が今どのような状態にあるのかを把握しておく、というのはとても大切なことだと思います。把握をしたうえで自分はどうしたいのかを考えてみる。在宅でありながら大きな病院に通院して抗がん剤治療や放射線治療を受けるという選択肢もあります。通院しながら2週間に1度、又は1週間に1度の割合で訪問診療でも精神的にサポートしたり訪問看護師が身体的なチェックや心配なことを聞いてアドバイスをしたりします。こうやって患者さんが病気のことや今後のことを自身で考え受け入れていく過程をお手伝いしていく事もあります。

在宅の場合には、ご家族の負担は大きいと思います。最初は歩いて自宅に帰ることができても、最期ピンピンしながら亡くなる人はいません。ゆっくりと寝たきりの状態になっていきます。そのケアはどうするのか。下の世話や着替え、パットを変えたり身体を拭いたりする・・・。そういったときにヘルパーさんや訪問看護が入って一緒に処置をしてくれたり、 少しでもご家族に自由な時間を持ってもらったりできます。ヘルパーさんを活用しながら手厚い看護をご家族に提供できる方向に今は向かっています。

ご家族の介護力は在宅には必要な要素になります。レスパイトという言葉があるんですが、ご家族がもう自分たちでは看護できない、肉体的にも精神的にも疲れてしまったときに患者さんに一時入院してもらう、ということもできます。介護力、支える力によっても在宅やご自宅での看取りができるかどうかの分かれ道になります。

テンプル――
癌を含め、在宅でのターミナルケアの際、痛みに対してはどのような医療介入ができるのでしょうか?

賀村――
癌性疼痛など癌による痛みが出てきた場合には緩和医療などの処置ができます。緩和医療についてはいろんな勉強会があったりします。うちのクリニックが幸いなのは、日本でもトップクラスの緩和医療の教授が週に1回、個人宅やホームを廻っていて、私も院長もその先生から癌性疼痛など様々な対処法を学ばせてもらっています。公開講座や講習会への参加もしています。

癌の種類によって痛み止めが効く、効かないということもありますし、転移があるかどうか、転移した部位はどこか、ということも関係してきます。ただ独居の場合は厳しいところがあります。「痛い」と言葉に出して言ってみても、そこはシーンとした空間。ヘルパーさんが時間になったら来てくれるけれど、痛いときに痛いと言って「大丈夫ですよ、お薬飲みましょう、少し様子を見ましょう」という人とのコミュニケーションができる環境でなければ、どんなに私達がこのお薬のセットで行けそう、という手応えがあったとしても、痛みを耐えられない・・・とホスピスに入院されるというケースがあります。

テンプル――
独居でなくとも、例えば年老いた奥様をやはり年老いたご主人が介護しているというお宅もありますよね。チームワークを組む体制がないと、在宅は難しくなりますか?

賀村――
可能性はゼロではないですが、やはり難しくなります。体を支えたり服を脱がしたり着させたり、一人ではかなり大変なことも多いです。それは若い方であっても大変ですね。私たちもご自宅に行った時に「あれ、うんちの匂い?おむつを替えましょうか?」と在宅看護師と一緒にケアさせてもらうことがありますが「え、これ、ちょっとここ持って!足の位置気を付けて!」とか、力がある介護者であっても大変なことってあります。ご病気で麻痺があったり癌でお腹にお水が溜まったり、体全体が浮腫んで皮膚が傷つきやすくなっていたり・・・患者さんの状態にもよりますが介護をする、というのはやはりマンパワーが必要だと思いますね。あと、介護者の方の精神的ケアも必要です。「自分が介護できなかった。ケアをしようとして反対に痛い思いをさせてしまった」とか。患者さんだけではなく、介護をしていくご家族や介護者の方々の心の状態も関係してきます。

先日、肺がんで転移をしている独居の方のお宅に行きました。最初は2週間に1度ということだったんですが、もう来ないでよ、と言われて・・・。痛みが続いたのでお薬を切り替え、訪問看護ステーションの看護師の方が本当に一生懸命にお世話をされていたんですが、突然痛みがひどくて起き上がれないから入院したいということで緊急に往診に入りました。その方は骨転移もあったんですね。癌性疼痛の悪化です。癌が背中で大きくなったりすると、脊椎神経を圧迫し足の力が入らなかったり痺れが出たりして強い痛みが出たりするので、それが出てしまったんだと思いました。それは痛くて辛いだろうと。痛み止めをベッドの脇にセットしてもらったけど、やはり一人だから難しいんです。飲み物だけでも、と思っても、やはり一人だと寝た体勢で飲み物を取るというのも大変なんです。

「入院させてほしい」「分かりました。でも今週末ですぐには入院できない。違う痛み止めを処方するので週明けまで頑張ってほしい」とクスリを処方しました。

ところでなんで腰が痛いのかしらと思ったら本人が「ぎっくり腰をやってしまってよ~」なんて言っている。「え~、ぎっくり腰なの?この痛みは」と思ったけど、本人ではその区別はつかない。密かに癌が進行していることも考えられる。それになによりご本人が一人で生活できる状況ではない、食べられないしポータブルトイレにも立てない。そんな状況ではやはり厳しいという判断で入院してもらうようにしました。その方は今週病院で亡くなられました。ケアマネージャーさんが往診や訪問看護の手配などをしていたんですが、そのケアマネさんが、本当にいいタイミングで入院できて良かったとおっしゃって下さいました。一人暮らしでトイレにも行けない状況はやはり辛いですよね、と。

テンプル――
一人というのはやはり辛いですよね。不安もあるでしょうし、死に至る過程を一人で受けとめるのはなかなか容易ではないですよね。

賀村――
その方のお宅はコンクリートむき出しの昔のトイレが玄関の真横にあったんです。しかも段差もあり・・・。それが苦痛で、最初は入院させてくれ、入院させてくれとずっと言われていました。最初は痛みのために入院したいのかと思っていたら、よくよく聞いてみると「あのトイレであの格好で出来るか」というわけですよ。それですぐにポータブルトイレを置かせていただきました。これだったら大丈夫ですね、という環境にすることで最初の入院は免れたんです。環境を整えることは本当に大切です。

一緒に悩んだり、聞くだけしか出来なくても話を聞いて、そして何かあったときにはすぐに顔が見える・・・。それがあの男性の最期にとっては必要だったなと思います。

テンプル――
今のご老人というのは、明治大正を力強く生き抜いてきた方ばかりなので、本人は死にたいのになかなか死ねないということがありますよね。私はエリザベス・キューブラー・ロス博士のご自宅に2度ほど行かせていただきましたが、あの先生が最後に苦しまれたことは、自分がまだ生きている、ということだったように思います。ターミナルケアの専門医だったにも関わらず、世話を受けながら生きている自分を受け入れられなかった。自分は死ぬ準備はとっくに出来ているのに迎えが来ない、そのことに怒りを持っていらしたと思います。『じゃあ、博士が亡くなったらハッピーバースデーを天に向かって歌って博士の死をお祝いします』『ぜひ歌って』と約束を交わしたこともあり、歌いましたよ、博士の死を知ったとき空に向かって。

『死ぬ瞬間』  『人生は廻る、輪のように』

賀村――
私は博士は納得していなかったのでは?と思います、死を。どうして迎えに来ないの?と言われるんですが、まだ納得していない何かがあるんじゃないかなと感じることがあります。死にたい、死ぬ準備が出来ていると言われていても、まだ生きたいという思いがそこには漂っている気がします。

テンプル――
ロス博士の場合、死の受容プロセスのどこかで止まっていたのかもしれません。

賀村――
日本の方と死の受けとめ方が違っているのかもしれませんが。ロス博士の場合には世界的に有名になられていたので、有名であったということが引っ掛かりになっていた、ということはないですか?

テンプル――
それはないと思います。FEDEXの方が配達の途中で毎日様子を見に来ていましたが独居でしたし孤独だったと思います。もちろん看護婦さんやヘルパーさんが最初は来ていたんですが、あまりにロス博士の気が強いので、ヘルパーと喧嘩になってしまったようなんですよね。博士を慕ってサポートに来ている方はいたとは思いますが、毎日24時間体制で博士の世話をしている、という方はいらっしゃらなかったと思います。

私が博士のことを推測するなんてことは出来ませんが、強い怒りをお持ちなのは感じました。というより、遠慮無く、誰憚る(はばかる)ことなく怒りを表現していらっしゃいました。

賀村――
最期の最期、自分が主導権を握ることができない、その怒りはあったかもしれませんね。

テンプル――
どなたかの本で読んだんですが、博士の最期は、あっけないほどあっという間だったようですよ。

賀村――
そうなんですよね。不思議なタイミングなんですよね、人の死って。肺がんで脳転移された方が、息子さんが会社に行っていて、お昼すぎくらいにご家族から連絡があり往診に行きました。「息子さん、お帰りは何時くらいですか?」「今日は早く帰ってくるように言います」という会話があって、いったん私達はクリニックに戻ったんですが、夕方5時すぎくらいに電話があり「呼吸が止まりました」と。すぐにご自宅に向かったんですが、息子さんもそこにいらっしゃいました。「間に合ったんですか?」ってお聞きしたら間に合って「お父さん!」と声をかけたら、その声に反応したあとに息を引き取ったと。息子さんの帰りをお父さんは待っていたのかもしれないですね。

テンプル――
その反対に、何年も付きっきりで世話をしていたのに、ちょっとお茶を飲みに行った間に亡くなってしまったりするんですよね。私の友人でそういう体験をした人が何人もいるんです。ずっと看護していたのに最期の時にそばにいられなかったと長く悔いが残り、心の整理が大変そうでした。あまりに愛情が強かったり、死なないでほしいと家族が思っている場合には、一人になるタイミング、その家族がいなくなるタイミングじゃないと亡くなることができなかったんだと云う人がいます。でも残された家族は辛いですよね。

賀村――
『私がいなかったらこの人はどうなるんだろう、どんなに悲しむだろう』と思いすぎていると亡くなりにくい、『私がいなくても大丈夫ね』と感じたときにフッと亡くなられる方もいらっしゃるのかなと思います。『私が目を離したほんのちょっとの隙に亡くなったんです』と言われるご家族には、私もそのようにご説明します。『もうあなたは大丈夫ね』と患者さんは思われたんじゃないですかと。なかなか受け入れてもらえないときもありますが。

テンプル――
以前1度だけお会いした男性なんですが、十数年前に亡くなられたお母さんの死をその後もずっと納得していなかったんですね。そのお母さんは病院でリンゴを喉に詰まらせて亡くなられたそうなんですが、自分は仕事の合間にしょっちゅうお見舞いに行っていたのに、自分の兄姉はお見舞いにほとんど行かなかった、看護婦さんも母親がリンゴを食べるときにそばにいてくれなかった等々、お母さんはすでに十数年も前に亡くなられているのに、なお私に怒りをぶつけられていたので、大変だなぁと思ったことがあります。

賀村――
そうならないように在宅では時間をかけてお話を聴き、亡くなること自体は罪でも罰でもなく自然なことであるとお伝えしていきます。ガンかもしれない、老衰かもしれない、あるいは事故による突然死かもしれない、小さな子どもの死もあるかもしれない。いずれにしても、死は人がこの世から卒業していくことだと説明していきます。生まれてきて永遠に死なない人はいないわけですから、死は何も特別なことではないということは時間をかけてお伝えしていくようにはしています。

死について事前に言っておいて良かったというときもありますし、そうじゃない時もあります。時が解決してくれるというのはよくあることで、亡くなられた直後は受け入れられなかったというご家庭でも時の流れで受け入れが進んでいくこともあります。亡くなるのはそのご本人のタイミングであり、残されたご家族もご自身のタイミングを受け入れることができればいいかなと思います。無理矢理分からせるものでもないですし、表面的に分かったつもりでも何かの拍子に噴出してくることってありますよね。それは辛いですよね。

テンプル――
そういう意味でガンってそんなに悪い病気じゃないと思うのは、死まで猶予があるじゃないですか。私の友人で、お父さんが会社に出社したあとで脳梗塞で急死してしまった人がいるんですが、家族が突然亡くなってしまった喪失感を癒すには長い時間が必要だったと思います。一方、ガンは死まで日数がありますよね。もちろん抗がん剤で苦しんだり、ということもありますが、『死を受け入れるまでの時間がある』というのは悪くないなと思っています。

賀村――
突然死というのはその死を受けとめるまでに時間がかかると思います。私自身、自分が突然死んだら廻りの人はどうするだろうとか、誰かが突然死したら自分はどうなってしまうだろうとちょっと考えたりしていました。そんなとき人間は感情の嵐になるのが普通で、それでいいんじゃないかなとも思います。

テンプル――
突然死でも、穏やかな生活の延長での死ならばまだいいでしょうが、例えば、前日親子喧嘩をしていたとか、相手と気持ちの行き違いや誤解が生じている間に片方が亡くなった場合には、残された人は後々悔いは残るでしょうし、その気持ちが癒えるまでには少し時間がかかってしまうかもしれませんね。

賀村――
在宅の患者さんでまだ元気なときに「喧嘩しちゃったのよね~」という時があり、だんだん弱ってきて気力も衰えてきて呼吸状態も変わってきた。そして『もう長くはないかも』という合図があったときにご家族が「ゴメンね」とご本人に謝ったということがありました。そしたらご本人さんが「いいよ」と言ってご家族の頭を撫でたり・・・。

最近もありました。娘さんがお父さんに「ゴメンね」と言って、お父さんが頭をポンポンと叩いたと。それで気持ちが収められたと言われてました。こうやって気持ちの行き違いや誤解が解消されていればいいけれど、やはり解決しないまま・・という時には辛い時間が長いかもしれませんね。

テンプル――
テンプルのお客さまは、臨死体験や、死期が迫っている方がすでに亡くなっている家族に再会するといったような『お迎え現象』や『ビジョニング』を受け入れている方も多いかと思います。普通に生きていると、人の死に立ち会うという経験はほんの僅かしかないと思うんですが、賀村先生は多くの死に立ち会っていらっしゃいますよね。終末期にある方が、死の世界を垣間見る、過去に亡くなった人と会うといったことについて賀村さんの体験をお話いただけますか?

賀村――
ビジョニングについてはデニー・コープさんが本に書かれていらっしゃいます。奥野先生は『お迎え現象』と言われています。私自身はこのことは積極的に言わず、ご家族との会話のなかで『昨日おじいちゃんが変なことを言って・・・』となったときに『どんなんだったんですか?』と話を進めていっています。

『大切な人の看取り方』

私が初めてこれはビジョニングかなと思ったのは75歳の子宮頸がんの女性でした。娘さんがキーパーソンとなりご自宅でケアをしていました。だんだんと水分摂取が不可能になってきて、死への恐怖を頻繁に口にするようになりました。親戚の方が来ていろんな話をされていました。日中もウトウトするようになり「お爺ちゃんが夢にでてきた、怖い」「扉を開けたらお父さんがいて迎えに来た」というようなビジョニングを経験されました。このときは娘さんから連絡があり「棺桶に半分入っているよね」という言葉があり「そうねぇ。目には見えないけど、お爺ちゃんたちが迎えにきて大丈夫だよと言ってくれているんでしょうね」というお話はしていました。これがビジョニングというものかなと思った最初の経験です。この女性は、娘さんとお婿さんがお母さんの身体の位置を変えようと、お母さんを抱きかかえたときに息を引き取られました。


テンプル――
それは素晴らしい瞬間を選ばれて亡くなられたんですね。

賀村――
厳しい患者さんでもありました。いろんな経験をさせていただいたなと思います。この家には柴犬がいたんですが、私達が行くといつも仁王立ちするみたいにベッドの横に立ちはだかったので、「私達はこれからお祖母ちゃんの診察をさせていただくものです」と挨拶をし、その柴犬がベッドの脇にどけてくれると「どうもありがとうございます」とお礼をいい、診察が終わったら「今日のお祖母ちゃんはこうでしたよ」と柴犬にご報告をし・・・というふうな感じで診察をしていました。そういうふうにお祖母ちゃんをいつも守っている家族というか存在がいたので、非常に印象が強いですね。

ただ日本の方は大っぴらにこういったお話はしないですね。おかしくなったと思われるのが嫌なのかもしれません。私はこの方はもうすぐだなと思うときにはご家族にはあらかじめ、こういった不思議なことを口にするかもしれないけど、気が変になったということではないとお話します。お迎え現象みたいなものがあってもそれは大丈夫ですよとお話しておきます。

テンプル――
何かの本で読んだんですが、見えない方々が見える看護婦さんだったかな、病院に見えない人たちがワンサと集まり始めたら、ほどなくして患者さんのお一人が亡くなるんだそうです。あの世からのお迎えは1人2人のレベルではなく、大勢で来ているようですね。私は母がまだ元気なときに、そういうことが起きたら教えてって言っていたんですが、残念ながら母はそういった内容のことは何も話さなかったですね。

賀村――
口にすることが少ないのかもしれないですね。

テンプル――
『看取り先生の遺言』を読むと、癌の在宅緩和ケアをされていた岡部先生はお迎え現象が起こる前提条件として、病院ではなく自宅で、ということを言われていました。病院だとやはり幻想幻覚があるということでクスリを処方されてしまって、お迎え現象が分からなくなってくるんでしょうか?

賀村――
自然な形での死の過程を経ていくと、何が起こっているのか目では分からないんですが、その人がエネルギー体になっているというか、肉体よりも違うところに入っているような、そんな感じがしてきます。それが病院だと、たえず点滴があったり、器具の音がしたり、看護婦さんが様子を見に来たりします。もちろんそれが病院の仕事ではあるんですが、お迎え現象には環境が影響するのかなと思います。

ゆっくりと肉体から別の次元に変わっていくその過程で意識が拡がっていくというか。脳科学者のジル・ボルト・テイラーさんは、自分が脳卒中で倒れていたときに、指先が全てのものと同一化した感覚を持ったり、人間のものというよりは動物の感覚になったりと、いわゆるワンネスを感じたそうです。それが自宅にいると自然に起きていくのかなと。

私がお手紙を受け取った方は、お祖母ちゃんが亡くなられたときに親戚一同がお祖母ちゃんのベッドの廻りに集まって「おばあちゃん、おばあちゃん」と声かけをしていたら、おばあちゃんがパッと目をあけて並んでいる人たちの顔を一人ひとりじっと見て、最後まで顔を見ながらフッと息をして亡くなったと。それは凄いぞと。そんなことがあるんだと感動しました。ずっと目を閉じていたおばあちゃんが、最後に目をあけて大丈夫・大丈夫、あなたも大丈夫と言っているかのごとく、繋がっているよという感覚があったなかで亡くなっていった・・・。

テンプル――
それはご家族にとっては何よりの贈り物でしたね。

賀村――
良かったなぁと本当に思いました。いただいたお手紙には『みんなに囲まれて、最後にパチッと目をあけて廻りを見回してから息を引き取りました。まるでドラマのようでした。娘と一緒にお湯で身体を拭きましたが少しも汚い感じはしないのです。きれいにしてあげることが出来ました。亡くなる少し前、母に幸せだった?と聞いたら「ウンウン」と答えてくれました。何よりのご褒美でした。苦しい思いをさせなくて良かったです。母にとっては幸せな最期だったと思います』と書かれています。凄いなぁと思いました。

グループホームでお看取りをした方もそうでした。2~3週間前にいきなり私の顔を撫でながら「あなたも大丈夫、私も大丈夫」と。それまでは認知症がひどい方で「何よ、何しにきたの!」と診察拒否、血圧測定拒否をされる方でした。それが「あなたも大丈夫、私も大丈夫」と・・・。何が起こったのか、すごい愛を感じました。その人の本質が出てきたのかなと後から思ったんですけれど・・・。

テンプル――
看取り士』の育成に力を注いでいらっしゃる柴田久美子さんは、亡くなる方というのは最期、愛の塊のような存在になると。その方が生前受けた愛をそばにいる人にそのまま手渡して逝かれる。だからそばにいないともったいないのよと言われていました。私は両親が亡くなる時、そばにいることができなかったので、もったいなかったなと思います。

『幸せな旅立ちを約束します 看取り士』

とはいえ、人生の最期を病院で迎えると、すでに肉体は亡くなる過程に入っているのに、病院としては1日も長く患者に生きてもらうのが使命ですから、生きさせるための薬の投与や点滴がされてしまうことが多いですよね。医療行為が、人としての自然な死の過程を踏まなくさせるものになってしまっている気がします。家族としては「こうしないとお父さん亡くなってしまいますよ」と主治医に言われると「だったらして下さい」となってしまいますよね。家族としてはどうしたらいいんでしょう。もちろん本人がまだ元気なうちにどういう最期を迎えたいのか話し合っておければいいんでしょうが。

賀村――
ご家族はなかなか決められないですよ。今の日本で、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんをご家庭で看取ったという人はほとんどいないと思います。人が死ぬってことがどういうことか知らない状況で私達は生きてきてしまっている。『お祖母ちゃん亡くなったよ、病院で』と棺桶に入っている姿を見ている。そういう場面がほとんどだと思います。だから、人が死んでいくという実感がない中で『死んでしまいますよ』と言われたら『生かして下さい』ということになってしまいますよね。でも死は自然なことであり、お祖母ちゃんは肉体的に死んでしまうけれど、お祖母ちゃんがいたからこそお母さんがいて、お母さんから私が生まれたという繋がりのエネルギーは全く切れていないわけです。また自分が妊娠して子どもが生まれ・・・。

テンプル――
命は続いてますよね。

賀村――
肉体は終わるけれども、お祖母ちゃんの特質や個性は遺伝子的に残されていくわけです。ですからお祖母ちゃんが完全に消滅するとか、存在しなかった、ということではない。そういうことが感じられなくなってしまったなぁとは思います。それとともに死んでいくことを見ながら『では、生きているってどういうことだろう?』。そんなことを考える機会を奪われてしまったかなと思います。死ぬと、地球上で行われているような行為はできなくなる。それを対比しながら生きることを考える。そういうことをしなくなってしまったから、生きることそのものが辛くなってしまったのかなぁと思います。

お祖母ちゃん、お祖父ちゃんの生き様を見せられると、自分は生きているってことを肌で感じるし、考えさせられる状況になります。泣きながら怒っていても『生きている!』『これでいいじゃん』って。物事がうまくいかなくて、うわ~って泣いていても『これっていいじゃん』って思うんですよね。

テンプル――
生きているからこそ感じられることですしね。

賀村――
そうそう。それもありじゃんって。もう、どうしようもないってことがあるじゃないですか。本当は外来がやりたかったけれど、いつのまにか在宅担当になり・・とか。そういう自分ではどうしようもないことも、それまではもがいて、力ずくで自分でなんとかしてやるんだって思っていたことも、なんとなく力が抜けて、これもありだよね~って思えるようになりました。生きているからこそ、そんなことが起き、死後の世界ではきっとこうはならないんだろうなぁと思うんですよね。

テンプル――
ジタバタするのが地球の人生。

賀村――
そうですね。そんなふうに思えるようになりました。

在宅が凄いってことではないんですが、交流会やクリニックで行っている公開講座などでお話させていただく機会も増え、以前の私だったらやらなかったこともさせていただいています。生きるための医療ももちろん必要ですが、人生最期のための医療がもう少し拡がっていけばいいかなと思います。

テンプル――
昔、姥捨て山ってあったじゃないですか。親を捨てるのとは違いますが、自分の死を覚悟して自分で山に入り、自分で静かに死ぬっていうのも死の選択肢の1つとしてアリじゃないかなぁと思うんですよね。病院のなかで管だらけで死ぬよりも自然なことではないかと。犬や猫が自分の死を悟ったとき家を離れてどこかで死ぬように、人間にもそういう世界観が許されるところがあってもいいんじゃないかなと思ったりします。もちろんこれは自殺ということではなく、自然の摂理、命の循環として死を感じたとき、ということが大前提になりますけど。

賀村――
昔の人は死をそれぐらい真っ正面から受け入れていて、これが自分のタイミングなんだということを納得して山に入られたんだと思うんですよね。

テンプル――
もちろん、貧しい時代は口減らしということが大きかったとは思うんですが、生き物が持つ本能の1つとして、人間もそういった死に方ができる、受け入れられる社会だったら、死にまつわることって今とは全く違っている気がします。

賀村――
それとは反対に、今は、本人の意志とは関係のない不本意な延命ということもあると思うんですよ。

テンプル――
延命にかかる医療費の問題もありますよね。すでに肉体は亡くなるという過程に入っているにも関わらず、ご家族の希望で延命という治療がされてしまう。そういった死を引き延ばすための医療費が一人あたり100万、150万円とかかってしまう。もしご家族が死を受け入る準備ができていたら、ご本人も無駄に苦しむこともなく、国の医療負担もずいぶん軽くなるのではないでしょうか。

賀村――
死生観が日本の生活の中から無くなってしまった、ということが全てに繋がってきている気がします。

テンプル――
『看取り先生の遺言』には、人生最期の過程にもっと宗教が介入できたらとありますが、宗教的な側面はどうですか? お一人お一人違った宗教観をお持ちでしょうし、全く神仏を信じていなかった人もいるでしょうし。

賀村――
在宅のなかでは、あえて宗教的な話はしませんし、話題にもならないですね。

テンプル――
宗教的な儀式や概念を必要とする人としない人がいるのかもしれませんね。欧米のように三大宗教の確固たるバックグラウンドがあるわけでもないですしね。

賀村――
さきほどの話ではないですが、死すべきタイミングのときに死ぬのが自然だよねという考えがもう少し拓けてきたらいいな~と思います。

テンプル――
いずれにしても、病院で死ぬか、自宅で死ぬか、ケアホームで死ぬかで、自分がどのような死を迎えるかはずいぶん変わりそうですよね。私自身は自分のミッションの1つとして、複数の方々と新しい家族を形成ながら、人生の最後を自然の中で暮らし、自然にゆっくり死ねるような場所を作りたいと動きはじめて、八ヶ岳に土地を買っちゃいました。

ところで、いろんな方の死に立ち会った賀村先生は、ご自身がどう死にたいかを考えたりします?

賀村――
理想の死に方とはちょっと違うんですが、自然のなかで朽ちていく木のように枯れていく自分を想像することはありますよね。

テンプル――
ということはずいぶん長生きされそうですよね。

賀村――
森の生い茂った木々のなかで木がゴロンと倒れて朽ちていく、そんな感覚ですね。新たな生命が混在するなかで枯れて死んでいき、それを廻りのみんなが受け入れてくれる。そんな場面をたまに想像します。だから、こういうふうに死んで、その時誰かが手を握って・・・という感じの想像ではないですね。

テンプル――
私自身は子どもの頃から、いつ死んでもいいなと思いながら生きてきたところがあるんですよね。4才の頃すでに、80才まで生きるとすると、人生は長いなとうんざりしていた子どもでしたので・・・。その代わり、いつ死んでもいいように生きたいなとは思っています。あっさりどこかで死んじゃって『光田さん、ケイシーやってたけど、あんな死に方したね』って言われるかもしれませんけど。

賀村――
私も、枯れて死ぬって想像しながらも、朝、行ってきまーすと家を出てフト気がついたら死んでるっていうのもありかなと。自分が壁を抜けたって思ったら死んでたとか。

テンプル――
スピリチュアル系の人って時として、人が事故で死んだり、台風のときに溝にはまって死んだりすると、あの人はあんな死に方をして悪いカルマかしら?って云う人がいます。もちろん殺されるってことは嫌ですが、私はその人がどのように死んでも、その人の人生は貴かったと思うんですよね。畳の上で死ななかったからその人の最期は不幸だった、ということではないし、1人で亡くなったとしても、死ぬときにはアチラの世界から大挙してお迎えが来ているわけですから、決して孤独死でもない。

賀村――
生きるって大変じゃないですか。重圧がかかっている中、みんな一生懸命生きてるでしょ。一生懸命に『こうじゃなきゃいけない』とか『こうするべき』と言って自分自身も周りの人もジャッジして嫌な気持ちになったり、怒りが爆発したり、悲しみがあったり。人として進化、成長するということは『肉体』だけではなく『心や魂』も含めてだと思うんです。今の社会環境って『心や魂』の成長という面において本当に厳しいと思います。そんな世の中から『肉体が死ぬ』というのは『この修業の場からの卒業。進化、成長しましたね。頑張りましたよ』だと私は思うんです。どのような最期だったとしてもみんな『一生懸命にこの世を生きたんだ』と思っています。

小学生だったか中学生だったかある男の子が職業体験でクリニックに来たことがあるんですね。その子が「最後に質問があります」と。「死んじゃった患者さんをどう思いますか?」「どんなときに悲しくなりますか?」という質問があったんです。それで彼に「亡くなられた患者さんについて、悲しさもあるけどこの世から卒業されて良かったねって思うよ」と言ったら彼の顔つきがパッと変わってアレって思ったです。

数日後に彼からお手紙をもらって、そこに『僕のお父さんは亡くなっています。先生は死は悲しいことではないのよって言ってくれたけど、でも僕はとても悲しい』と書かれていたんですね。

あ、そうかぁと思って・・・。私はこういう死生観をもっているけど、彼が死を悲しく思うのはすごく当たり前で今もリアルに感情が感じられる事実で・・・。自分自身、在宅医療に携わるようになって死生観が変わりました・・・。普通に私も悲しい、残念だ、という感情は今だって自然に湧きおこってきます。最期のお看取りの時にご家族と一緒に泣いちゃうこともあります。でもそれだけではなく『お亡くなりになる』という現象を通して自分たちが『生きる』ということや『愛』ということを学ばせて頂いているんだなぁ~と思うんです。『悲しみ』だけではなく『大きなギフト』を受け取っているんだね、ということをみなさんとシェアできれば、と。

お手紙をくれた男の子とはもっといろんな話が出来たら良かった・・と思いました。「悲しいよね、お父さんがこの世にいない・・・でもね」って時間をかけてお話が出来たら良かったなぁ、と。

今後は『お亡くなりになるということ』を子供さん達と一緒に話したり考えたり、感じたりする機会ができればいいな、と思います。



今日は貴重なお話を聞かせていただきまして、本当にありがとうございました。
インタビュー、構成:光田菜央子


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