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『千と千尋の神隠し』 : 追体験と新しい発見

7歳のわたしと、26歳のわたしが見たジブリは、同じ故郷に20年たって帰ってきたときのような懐かしさと新鮮さがあった。

19年ぶりに映画館で『千と千尋の神隠し』を観れたこと、このポイズンな時勢でもすごいハッピーな出来事だった…。

何より、一度見た映画を追体験できたことがとても良かった。

その貴重な体験記をここにメモ。

いきさつ

26歳の誕生日。何も予定がなく、直帰してもよかったけど
なんだかそわそわした気持ちを抑えきれずに、
映画館で『千と千尋の神隠し』のチケットを衝動的に買ってしまった。
同作をきちんと見るのは、公開当時、小学生のとき以来だった。

街の60席くらいしかないシネコンの平日レイトショーは
意外と埋まっていて、どきどきしながら席に着く。

千尋が引っ越しで別れの花束を見つめながら
車に揺られているシーンが始まった途端、
7歳の頃と全く同じように引き込まれていった。

でも同時に26歳の自分もいて、
一歩離れて俯瞰して観ているような気持ちにもなった。

そうそう、リンって案外優しかったよな。
ハク、今見直したらめっちゃいい男やん…。
釜爺は口調荒いけど、良いおじいちゃんやったな。
湯婆婆って怖いながら経営力はありそうだな。とか。

それは昔のアルバムを観ているように
当時の思いと共に、蘇ってきた。
そこには、観たことのある情景がたくさん詰まっていた。

景色について

彼の作品に登場する場所やキャラクター像は実在することが多い。
もちろん『油屋』なんてものは存在するわけないし
空を飛ぶ龍も神様も実際には観たことはないけれど。

モチーフとなった場所や人は出来る限り忠実に再現している。
突飛な設定ながら、それは未来都市でも空想都市でもなく
限りなく世界に存在する風景だ。
今見ると、ふと、観たことのある景色を追体験していることに気づく。

突然迷い込んだ先の、苔むしたトンネルの不気味さ
暑苦しい屋台がずらっと続く台湾のような街の熱狂
ずっと地平線が続く夕方の静かな海
終点駅近くで降りた後に続く田んぼのあぜ道

どれも見覚えがある。

7歳の時にはただの背景だった舞台が
26歳でこんなにも愛おしい景色に変わると思っていなかった。

この映画の描く風景は、誰もが見たことのある景色。
よく「ここ、ジブリっぽい」と言うワードが出るが
本当は、逆によくある風景がジブリで描かれているのだ。

働き方について

あの頃は、千尋と幼い自分を同一化し、
見えない怖いものと戦うという疑似体験をしていて
10歳の千尋と一緒に驚いて、周りを見る余裕もなかった。

しかし落ち着いて見ている今も、また別の角度で
千尋と働く自分を同一化していた。

宮崎駿はある本のインタビューで
『油屋』はジブリのスタジオそのものと話している。

その前提で『油屋』を見直すと、千尋の周りには
怖い上司もいれば、厳しいけど応援してくれる先輩や
無関心だけど、そっとそばにいてくれる同僚がいて、
それは確かに働いている時の自分の姿と重なった。笑

しかしそれ以上に、千尋の働く場所は現代社会の
労働環境を映していた。

一平社員(契約社員?)の千尋は、
湯婆婆に真っ向から立ち向かっても捻り潰されてしまう。

しかし信念を貫いて「正しさ」を忘れずに進み、
組織から一歩離れた世界で、本当の答えを見つける。

ここで物語の鍵を握るのは、湯婆婆の双子である銭婆。

銭婆の暮らしは都会を離れて自給自足をして暮らす、
現代の理想となるような地方移住スタイルを取っている。

お客様に媚びる労働ができない千尋や、
寂しさと欲に狂って凶暴化したカオナシ、
悪い側面もわからずに閉じ込められていた坊達が
銭婆の地方暮らしに触れて本来の姿を取り戻す姿は、
現代社会人の労働のあり方に対する問題定義を
与えているものだったのかも、と今更ながら感動した。

自然について

そして物語のラストで、ハクと千尋のルーツが明かされる。
そこで改めて驚いたのは、宮崎駿監督が
人間と自然でラブストーリー作っていたということ笑。

『風の谷のナウシカ』のナウシカとアシベルでも
『もののけ姫』のサンとアシタカでも
主人公と対になる相手はいつも人間だった。
しかし今回はついに、擬人化された自然相手…。

前段のような労働問題について定義しつつ、この恋愛を通して、
その影で搾取されている自然についても問題を呈すのだ。

湯婆婆の利益のためにボロボロになったハク。
彼は元は川の神であり、埋め立て工事で住む場所を無くしている。
いつかその川でハクに助けられていた千尋は
その川の存在を思い出し、彼にその川の名前を告げる。

人間の利益によって無くされた自由を
千尋によって再びハクは取り戻すことになる。

それがこの映画のもっとも見せ場のシーンである。
千尋を最後に元の世界へ導いたのは、幼い頃の自然体験だった。

なんと…。

7歳の時に純粋な成長譚として楽しんでいたはずの
その映画を再度見た私は、映画を見終わる頃には
些細な景色の秀逸な描写の再現性で心掴まれ、
奇想天外なキャラクターに潜む人間らしさに惹かれ、
油屋と千尋の働き方を通して労働社会の構造を再発見し
最後に自然に対する価値観を再度考えさせられていました・・・。

本当に素晴らしい映画にだったんだなーと
最後は唖然とただ映画館の椅子でのびていました。

またエンディングの『いつも何度でも』の歌詞の尊さよ。
あの頃はただの旋律だと思ってたのに(ララランラン♪言うてるし)
歌詞の重みが10トンぐらいあって、びっくりした。
これはおばあちゃんになった時にもまた響くんだろうな。

最後に 

帰り道、電車に乗ってガタンゴトンと揺られると、
私はまた千尋を疑似体験していることに気づいた。
まるで横にカオナシを置いて旅に出ているような。

電車の速さとか、車窓の景色とかが
映画に出てくる速さとなんとなく同じに感じた。
かなり体感速度に近い描写なのかな。

走るシーンも、めちゃくちゃな速度で描かれているけど
あれも体感と言う意味ではかなり実際に近いと思う。

親近感はこんなところでも忠実に再現されているからなのか…?
と思うとますますこの映画の深みにハマりそうになった。

生きてるうちに全ては理解できないかもしれない。
でも本当に何度でも観たくなる。
『千と千尋の神隠し』は、私、いやもう見た人全員にとって
見るたびに新しい発見のある思い出のアルバムなんじゃないかな
と、改めて実感した。

本当にこの映画をこのタイミングで公開してくれて有難うございます。
こんなに苦しい最中でも、こうして希望を提示してくれるジブリと
宮崎駿監督は、やっぱり凄まじい。彼はバカヤローって言ってそうだけど。

まだまだ自粛生活は続きそうだけど、映画を見た後、ジブリについて詳しく調べるだけでもかなり楽しい。引き続き楽しくステイホームして、たまに映画館には行こう。



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