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「今」はどこから来たか

私たち人間は産まれてからこれまで、
数多の分岐点で選択肢から一つを選び、
人生の道を歩んできたという感覚を持つ人が多いだろう。
筆者もその感覚の持ち主の一人である。

小説や映画・漫画では、パラレルワールドやタイムリープが題材として、
あるいは物語のシステムとしてよく用いられる。
過去を変えることで元の未来が変わり、その中を登場人物が活劇する。
では、実際に私たちが行動する過程で、
選択肢から選ぶことはあり得るのだろうか。

この世界の物体は絶えず動き常に変容している。
物体としては静止していても、それを構成する原子や電子、素粒子などの
微視的な視点では常に動いている。

星や銀河や宇宙そのものの巨視的視点でも同じである。
そして、その変容の様は非常に複雑で、
現在のスーパーコンピュータでシミュレートすることは到底不可能だ。

それでは、場面を切り取って、
とある海の浜辺に打ち寄せる一つの波に焦点を当ててみよう。

ある一波について時を止めて観察したとする。
この波の形、泡粒のサイズや位置、巻き込まれる砂粒の種類や数、水の塩分濃度差、差し込む光の角度とその影のかたち、それら構成する全ての要素を含む特定の波は、一つとして過去にも未来にも同じものは無いだろう。

混ざりあったコーヒーとミルクが、
その状態から偶然にも再びそれぞれに分離して
もとに戻ることと同じくらい、
同じ波ができる可能性は限りなくゼロに近いということである。

では、その波の中からさらに一粒の気泡にフォーカスしてみる。
ある気泡が、そのサイズで、その位置で現れるのは、
その気泡が発生する直前の瞬間によって決まる。
ゼロコンマ数秒、いやもっと微視的な時間レベルでの発生直前の、
その位置の波を構成する全てのものの状態、
さらには大気の温度、湿度、風速など、波に関与する環境、
そしてそれら環境に及ぼすさらに外側の環境を含む全てが
特定の状態にあったからこそ、
一粒の気泡の在り方が決まったのだ。

そして、これは当然全ての泡粒も同様であり、
波を構成するもの、
その外の環境のもの、
さらにその外郭のものさえも、
全く同じことが言える。

微視的な「今」の連続によって物体の動きが変化していることを考えると、泡粒が異なるサイズや位置を取り得る可能性となる
何らかの分岐が入りこむ余地はどこにも無い。

ある一粒の気泡のサイズが僅かにでも違って誕生することが
もしもあるとするならば、
その直前の状態から何かに違いが発生していなければならず、
さらに、その違いを生じさせる前の段階から
また異なる何かの状態が違うということになる。

はたして、違いの起点を見つけることは出来るだろうか。

その他の自然界であっても同じことが言える。
タンポポの綿毛のうち、どの種がどの場所で発芽するか、発芽しないかは、
その綿毛が出来る位置によって、飛ぶ前から決まっている。

花の受粉がどの虫のどの足にくっついて行われるか、
全ては一本の道で決まっている。

同じように、動物や人間の行動もそうだ。

ワニが獲物を捉えられなかったとき、それは動くタイミングが遅かったり、
スピードが足りなかったという原因はあるかもしれないが、
その原因となったことが発生したさらに原因には、
ワニの知覚や神経伝達のスピードに何らかの問題があったのかもしれない。
直前の状態が同じとき、もっと素早く動けた「はず」はあり得ないだろう。


人があることを思考して判断をするとき、
その人の性格や経験だけでなく、
その時の脳内分泌物の量、心拍、血圧、神経伝達の速度、温度、湿度、
一人か、周りに他人がいるかなどの外部環境、
その他さまざまな要因の帰着によって、
因果を絶えず繰り返している

この判断結果は、波の気泡がどのようなサイズで現れるかと同じく、
直前の状態や周囲の環境によって
たった一つの動きに限定されるだろう。

物質の動きも、人の心の動きと行動も、宇宙の生死も、全ては関連しあって「混沌・偶然」であると同時に、
「今」を切り取った時に、それ以外は起こり得ない
必然」であるとも言える。

こうして、混沌・偶然からの結果によって生じる必然的な「今」が、
継ぎ目なく連続で行われていくことが
この世界の理(ことわり)であるように思える。

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