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神の存在とは

言語と想像、マイノリティの存在による希少知覚とその意味づけによって、神が神として名前と形を持ち、受け継がれる。
星や山はただそこにあるだけであるが、しばしば神として崇められ、
物語の登場人物となり、人々を救い、時には罰する存在として
言い伝えられる。

ところで、神とは一体何なのだろうか。

「神」は一般的に、人知では計り知れない能力を持つ、
人間を超越した、隠れた存在、あるいは宇宙の創造主などとして、
宗教信仰の対象とされるものである。

とは言っても、神のとらえ方は実際には様々である。

例えば、先述にもある創造主としての神。
これは通常、一神教としてとらえられる。
山、海、川、木や土、洞窟、岩、泉などの自然界の場所や物に
「宿っている」とされる神。
この場合、精霊や妖精、妖怪などと結びつきやすく、
多神教的なとらえ方がなされる。

他の例では、守護神や人間の感情などを司る神。
前述の精霊などの発展あるいは、
祖先や前世の考え方との融合により形作られるケースもある。
この場合は、創造主としての神に仕える天使や神使、
菩薩や明王もここにカテゴライズされるだろう。
これらの神の使いたちはしばしば動物などと
結びつけられることもあるのが特徴的だ。

このように、一言で「神」と言っても様々な様相を呈すことが分かるが、
これらについて分類して考えてみたい。

自然界の物などに宿る精霊などについて、
これは生物・無機物を問わず、霊魂・魂が宿っているという、
いわゆるアニミズム(汎霊説)的なものと分類できる。
この場合、神・精霊は、「魂」の存在が同時に語られることとなる。
守護神や、神道の擬人化された神なども、
大枠としてはここに分類できるだろう。

「魂」については後の項で考察するとして、
この精霊的なものと創造主の神とでは大別できそうだ。

したがってまず先に、創造主としての神について熟考してみたい。

創造主としての神(以降、創造神という)は、
一般にはこの世界の万物を作り、
キリスト教的にはその形に似せて人間を作ったともされる。

ではなぜ、創造神は世界を作ったのだろうか。
この問いへの適切な答えに出会うことは難しい。

神話の話ではなく、
あくまで自然科学や進化論、宇宙科学的な視点で考えると、
少なくとも私たちがいる地球・宇宙は、
私たち思考する人間が生まれる
遥か以前に誕生したと考えるのは至極当然である。

では、この宇宙の誕生に何者かの意思が働いているのだろうか。
人間であり、それ以外の存在ではない私たちでは、
仮に創造神がいるとして、その神の思考をはかり知ることはできない。
ただし、少なくとも筆者は、人間的な、人間にとって理解できる
「意思」の働きによって、宇宙が誕生するということは感じ得ない。

観測可能な宇宙の範囲で、
恒星の終焉や、銀河の誕生の一端が見えることを考えると、
宇宙の始まりは分からずとも
太陽とそれに付随する惑星(もちろん地球を含む)が偶然の産物として
誕生したであろうことは想像に難くない。

つまり、私たちを含む世界の誕生に、
神の意思は働いていないのではないか、
世界を作った「理由」などないのではないか、と筆者は考える。

では、次に、また仮に世界を創った神がいたと仮定して、
創造神は私たち人間やその他の生物・無機物に対して干渉するのだろうか。もし干渉するのならば、その目的は果たして何だろうか。

神学については全く浅い知識しかない筆者にとって、
「神の目的」がどのように伝えられているかは理解に乏しい。
したがって、これから記載することは、
神や宗教を信じ学ぶ人にとっては全くの見当違いであったり、
批判や反論の対象となるだろう。

しかし、ここは筆者の考えを自由に書く場であるため、
あえて忌憚なく記載することをご理解いただきたい。

神の目的として、
神の子である人間の精神的な、あるいは魂の成長であったり、
全ての人が神のもとにまとまることであったり、とある。
また、そもそも人を創った目的は、
人によって大地(世界)を支配・統治させることであったのだが、
しかし、人の堕落によりそれが叶わなくなった世界の中で、
その罪を償うことが人の目的であり、そのことが、
神の本来の「世界を統治する」目的に通じるものとして書かれている。

これは、あくまでキリスト教の教えで書かれている
「神の目的」についての言及であるが、
創造神としては、どの宗教も大差はない説明ではないだろうか。

ここからは、筆者のさらに勝手な想像と分析ではあるが、
創造神の目的として語られるシナリオはおそらくこうだ。

「人間の世界・社会は、貧富の差、生老病死の苦悩があり、人々は悪意と苦しみに満ち溢れている。決して幸福な大地ではないが、本来の神の理想は違ったはずだ。神の理想は誰もが幸福を感じて悪意がない世界を創ることであり、これを人間が統治するはずだった。その神の理想の世界に向けて人々が行動することこそが、神の目的であり、同時に人々の目的であるべきだ。」


ところで、なぜ人は神の目的を知ることができたのだろうか。
神は人知を超える存在であり、
神そのものと神の思考や思惑は人間が知る由はないはずだ。
では、神の意思を感じるというとき、それは本当に神の意思であるのか。

例えば、地面のある場所に蟻の巣があるとする。
そこに、いたずら好きで善悪を知らない幼児が現れ、水を蟻の巣へ注ぐ。
地面の蟻は水から逃げ、あるものは溺れる。
巣の中にいる蟻は逃げることもできず死んでしまう。
この時、蟻たちが人間と同じ知能を持っていたとすると、
彼らは何を思うだろう。

自分たちに降り掛かった災厄に、
家族の死を悲観し、何故それが起きたのかを問い、
答えを推し量ろうとするのではないだろうか。
死を免れた者は何故自身が生かされたのかを嘆き見つめ、
生きることへの意味を見出そうとするだろう。
そして、想像力を働かせ、納得させる意味づけを探し、
神の意思であることに気付く者が現れるかもしれない。

しかしながら、そこに真実には神の意思などなく、
人間の幼児の気まぐれであるということを、
蟻の彼らでは決して理解することはできない

人間が神の意思を感じることと、
蟻の大いなる勘違いとは、
一体何が違うだろうか。


創造神の意思を、人間である私たちがおよそ知る由はない。
そもそも人知を超える創造神を知覚することさえできないはずだ。


それでは、もう一つの神のあり方、
アニミズム(汎霊説)的な精霊などとして語られる存在について、
私たちはどのように理解できるだろうか。

これらは万物それぞれに宿る神などとしてとらえられる。
山の神、海の神、巨石や大木、大地、月、太陽、それらに、
名前や性別、イメージ像を伴って、特定の魂があるものとして語られる。
大・小の対である場合は、男女の神々として崇められることもよくある。

これらは、それぞれの物に存在する個別の神として語られるわけであるが、
この区分はどこにあるのだろうか。

山の神はどこまでがその領域であるだろうか。
裾野には裾野の神が、
平地には平地の神がいるのか。
山と裾野と平地の境界は、一体どこにあるのだろうか。

この地球は誕生してからおよそ四十六億年の月日を経ている。
その間にさまざまに様相を変え、物質は循環し、
そこに生きる生物は進化を伴って多様に多彩に拡散した。
山や海は隆起と沈降を繰り返して逆転した。
火山の噴火で遠くに飛ばされた巨石は長い年月をかけて風化し、
川から海に流れ砂粒となる。
海水は蒸発し雲となり、雨を降らせて土に染み、
湧き出し川となって再び海水へと戻る。
上空にある水蒸気の一部は、
地球の引力から離れ宇宙に放出されるものもあるという。

この循環の中で、山の神、海の神、巨石の神たちは、
どこかで次の領域の神へとバトンを渡しているのだろうか。
川の水と海の水の違いはどこにあるのか。
まさか、塩分濃度が神の種類を分けているのではあるまい。

2.2項で、人間は苦悩の解消のために意味付けをすると述べたが、
https://note.com/tem_jin196/n/n5a6736f657d7

万物の神を見るときも同様に意味付けをしているのだ
と捉えることは自然だ。

人間が抗うことができない自然物や、
手中に収めることができない物事に出会うと、
そこに神的なものを見出し、意味付けした結果、
私たち人間によって、八百万の神々が創造されたのだ。

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