個体差とイレギュラーがもたらすもの ②
不平等であることは、程度の優劣だけではない。
全体の中で、ごく少数の言わばイレギュラーとも取れる
性質を持つ個体も生まれる。
人間の場合、
ダウン症に代表されるトリソミー等の染色体異常、
脳の中枢神経欠陥による知的障害、
遺伝的要因や脳神経構造に起因すると言われている
サイコパスなどのパーソナリティ障害、
アルビノ、トリーチャー・コリンズ症候群、
その他、身体的・精神的障害に関わるものなど。
これら多数派から漏れるイレギュラー的な個体は何故発生するのだろうか。
生物の進化の過程では、一定数のイレギュラーの存在が、
環境の変化から種を存続させるために働くことが知られている。
キリンの長い首は、首の骨格と筋肉が微妙に変化した変異型が
ランダムに出現し、彼らが他の動物よりも高い枝に届くようになり、
栄養を確保できて生存できたため生き残った結果と言われている。
例えば、脳内の視覚を司る機能をもつ第一次視覚野を損傷した人は、
視力がなくなり、物が見えなくなる。
しかし、こうした人の中には、実際には見えていないのに、
障害物を避けるなどの行動ができることがある。
このとき、通常の視覚を処理するルートとは
経路を迂回して、別の領域で情報処理をしているらしい。
これは、盲視(ブラインドサイト)として知られている。
また、同じく視力を失った人の中には、視力の代わりにコウモリのような
「エコロケーション」を身につけることがあるという。
つまり、身体的な違いがあることが、
健常者にはない能力を身につける要因として寄与している。
自閉症スペクトラムの子供の4人に1人は、
サヴァン症候群と言われる突出した能力の持ち主と言われている。
自閉症は脳の神経伝達物質や機能と関係している。
キリンの祖先に、少し首が長い個体が生まれたように、
動植物には、一定の割合で遺伝的に多数と異なるイレギュラーが
必ず生まれる。
イレギュラーな遺伝子は、種としての生存確率を上げるための
生物の仕組みと捉えることができる。
人間も動物の一種である以上、
イレギュラー個体が生まれることは、必ず一定割合で起こる。
しかしながら、現在社会の仕組みの中では、
不自由なく生活することができるかどうかが、健常者/障害者を分けている。多数派の生きやすさが優先される社会では、
イレギュラーの存在は優先度を下げて捉えられることが多い。
ギフテッドならば特別視されることもあるかもしれないが、
意識もなく寝たきりの障害者や病気の人に対しては、
迫害的な思考を持つ者も、過去から現在まで少なからずいる。
2016年に起きた知的障害者福祉施設での殺傷事件は顕著な例であろう。
このときは、抗うことができない罪のない障害者への
卑劣な犯行に対する厳しい非難の声と共に、
一部では、優性思想的な行動への同調の声も挙がるといった
社会問題も見え隠れした。
筆者は道義的・道徳的理由で、
健常者は身体的・精神的な少数派や障害を持つ人と共生することが
人間社会として必要であることと認識している。
それは、先に述べたような、生物としての生存のために必要だから
ではなく、
人間社会のあり方として必要なことだからである。
しかし、なぜ社会の中で生きにくい特性を持つ人を守り
共生する必要があるのだろうか、
このことの論理的理由を問われたとき、
信心のない人も含めて、全ての人が納得のいく回答を
明確にできる人はどれだけいるだろうか。
筆者はこう考える。
社会の中での個の行動が、社会全体に大きな影響を与えるからである。
首都圏のいくつかの踏切では電車の往来が多いため、
いわゆる「開かずの踏切」と言われる所がある。
その中で、ある踏切では近くの駅の改札口の配置が悪いが故、
駅に向かう歩行者たちが電車に乗り遅れまいと踏切が閉じた後も、
線路を横断することが後を絶たないのだそうだ。
それも1人2人ではなく、大勢の歩行者が当然のように
遮断機をくぐっての横断が日常となっている。
おそらく彼らは、他の場所の踏切ではそのような行為はしないだろう。
彼らの中の一部の人が、正常ではない行動を始めたことで、
その場にいる他者にも「大丈夫だろう」という正常性バイアスが働き、
その踏切を利用する集団の多数が
遮断機をくぐる行動を取るようになったのだろう。
また例えば、シュプレヒコールだけを行うデモ隊の中で、
ごく一部の人が投石を始めたとき、
その周りも同調して次第に激しい行動を取るようになり、
場合によっては暴徒化する。
このように、社会全体の行動は、個の行動によって左右される特性を持つ。
したがって、イレギュラー個体への対応に視点を戻すと、
「現行の社会に役立たない者は排除してよい」
という行動が是とされるようになった場合、
社会全体がこれを容認するようになるかもしれない。
その行く先ではイレギュラーが排除され、
あるいは怠け者の2割のアリが排除されてしまうことになるだろう。
その結果、社会全体が環境変化への適応力を低下させることとなり、
長期的な視点で見た場合に社会の存続を危ぶませることとなるのである。
しかし、私たちは普段の道徳的な行動を考える上で、
小難しいことを考える時間はない。
そこで、意味や理由を考える必要がなく、
「神様の言う通り」で
「神様が見ている」から
正しい行動をすることが、
結果的に多くの人間にとっては、
いわば合理的な思考と行動であるのだと筆者は考える。
人が生きる上で抱える悩みを解消するために、
意味や理由をつけて、
道筋や光を教えてくれる「神」を作り出したことが、ここでも機能する。
生後間もなく死んでしまう命にも、
障害を持って生まれてきた命にも、
どうすることもできない不幸な出来事に対しても、
圧倒的信頼と絶対性を持つ「神」の言葉によって、
当事者や、周囲の者が納得する。
生物学的な能力差やイレギュラーが現れることは、
その存在の理由を示してくれる「神」をまた強固なものにしたのであろう。
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