【あの街 この建物】第一話:その昔、写真館は「街の最先端」だった
序
建築設計事務所を営んでいながらも、これまで全く触れてこなかった建築物の話。その理由は至ってシンプル。専門分野ゆえに、語り出すと「くどくなる」ことが分かっているから避けてきたのです(笑)。
とまれ、新たな「推敲の訓練」に相応しいテーマを考えてみた時、引き出しの多い分野で挑戦する方が、効果の程が分かり易いと考えるに至り、此度の仕儀とあいなりました。
取り上げる街や建築物は、有名無名を問いません。むしろ、アノニマスな存在に焦点を当てていく所存です。いずれにしても、ネットを探せば出てくる蘊蓄を披露するような真似はせずに、脚で稼いだだけの写真と、その場で受けた率直な印象を、自らの言葉で紡いでいこうと考えています。
その昔、写真館は「街の最先端」だった
記念すべき第一話は、わが愛すべき岩手県は盛岡市に散在する個性的な写真館を取り上げようと思います。
私は、これらの写真館を、単なる「古い時代に建てられた商業建築物」としてではなく、写真を撮影することが特別な意味を持っていた時代に、卓越した技術とセンス、そして強い意志を持った写真家たちの希望と、賢明なる技術者と技能者の力によって建てられた建築物であると定義しています。
そんな愛すべき写真館たちです。どうか、穏やかな気持ちで眺めて頂ければ有難いです。
1:ライト寫眞館
「ライト」という名前を聞いて、ピン!ときて頂けたなら幸いです。
オーナーは、アメリカの著名な建築家フランク・ロイド・ライト(1867~1959年:近代建築3大巨匠の一人)のテイストに寄せた写真館を所望されたのでしょうか。
それでは、分かっている範囲のデータを載せておきましょう。
さりとて「何を以てF・L・ライトか?」と問われれば、困惑混じりの笑みを湛えながら、建物の風体やディテールが醸す「ライト風な要素」を挙げていくしか返答の仕様がありません。
でも・・・何となくではあるけれど、その時代を生きたオーナーの希望や、それを解そうとした設計者の人柄とセンス、そして、設計図を具現化しようと試みた施工者の意志を感じることはできるはず。
また、写真館の各所を彩るアーティスティックな主張も気になるところです。上写真のエントランス脇に設えられたレリーフもまた、そうした意志が込められたオーナメントのひとつに挙げても良いでしょう。
初見の折には「ん?!これは鏝絵なのかな?」と思いましたが、それは見当違いだったようです。近づいて見てみると、どうやら型に流し込んで製作したことが窺われました。
こうした出自不明な気配を漂わせる存在もまた、ライト寫眞館に深みを与えてくれているように思われてなりません。
そして、隣地に植えられた大樹の陰を映す急勾配の大屋根は、軒先へ向かう程に緩やかなRを描いています。この美しい屋根の下にスタジオがあるかと思うと、何かしらワクワクしてしまいますね。
2:佐藤写真館
この佐藤写真館は、前出のライト寫眞館の斜向かいに建てられています。
以下のデータを参照して頂けると、ライト寫眞館との関係性が、ほのかに伝わってくるはずです。
といった具合に、佐藤写真館の方が1年早く建築されていたのですね。
こうした経緯を踏まえると、ライト寫眞館のオーナーの気持ちも分かろうものです(微笑)。
とは言え、一見して商売敵ではあるけれど、双方共に盛岡市民から長く愛されてきたことには変わりはなく、こうして2棟揃って遺っているという事実を鑑みれば、それは正に「良きライバル」として協働してきた結果なのだと私は思うのです。
建物は、木造2階建ての近代洋館といった佇まいです。
一瞥して目を引くのは、エントランス周りの意匠ですが、全体の雰囲気をまとめている左官職人たちの仕事を無視するわけにはいきません。
この当時、防火に対応する外壁の仕上げ材は、モルタル塗りが一般的でしたから、左官職人も気概をもって仕事に臨んでおられたことでしょう。そうした時代背景の中にあって、佐藤写真館の現場においては、かなり凝った左官仕上げを求められたことが分かります。
佐藤写真館には、オーナーと設計者の多彩にして繊細な要求に応えた名も無き職人たちの意地が、そこかしこに宿っているのです。
寄り道:翁本舗
私が盛岡市を訪れる中で生じた悔いのひとつに「食べる機会を失ったお菓子」の存在があります。
そのお店は「翁本舗」と言いました。
入母屋造りの仰々しい建物、そして老舗に相応しい看板。でも、そんな建物の風体に惹かれて撮影したわけではありません。
突然ですが「問題」に参りましょう。
Question:伝吉小父は、翁本舗の何に惹かれたのか?
下写真のお品書きの中から選んでみて下さい。
直ぐに分かりましたよね?
答えは言わずもがな。
Answer:銘菓 盛岡の女
一瞬、盛岡出身の演歌歌手(しかも遅咲き)のデビュー曲かと(笑)。
なにしろ「女」とかいて「ひと」と読ますのだから堪りません。一瞥したとたん、曰く難い滾りを覚えましたよ。もはや「翁のかすていら」が霞んで見えますね。
ところが、私はこの時、仕事先へ向かう途上だったため、入店しませんでした。「いずれまた買いに来れるだろう。」などと高を括っていたところ、かの翁本舗は、去る2022年3月に幕を閉じてしまいました。
銘菓 盛岡の女・・・賞味してみたかった(溜息)。
老舗菓子店の閉店が頻発する昨今、米・餅離れの進行と合わせて、餅菓子文化の危機を感じるばかりです。
甘味好きな若人に餅菓子の未来を託す!
3:唐たけし寫場
盛岡市中を流れる中津川(北上川支流)の東側に位置する地域は、藩政時代の名残を感じさせる地名が多く残っています。
ことに、唐たけし寫場のある中ノ瀬橋通りは、肴町や紺屋町、呉服町、鷹匠小路といった「職種・職能」を表す町に隣接しており、盛岡市の商家町の変遷を感じさせてくれるエリアになっています。
この唐たけし寫場については、前出の写真館の様なデータはありませんが、昭和初期(一桁台)に建てられたことは明らかです。
一見して凡庸で質素な建物に見えますが、石造りの基礎といい、2階正面のモルタル壁や桁高に設えられた凹凸の意匠といい、2階正面の大きな引き違いの段窓といい、芳ばしい点が盛沢山です。(腰高のタイルは近年になっての施工と推測)
私が訪れた時は、既に写真スタジオとしてのお役目を終えていましたが、現在はお洒落なお店「kanakeno」に変身しているようです。
近々、盛岡市を訪れる予定なので、その折にでも参上してみようと考えているところです。店内を見学するのが今から楽しみです。
4:小原寫眞館
この小原寫眞館(閉店)は、前出の唐たけし寫場から徒歩2,3分の場所にある魅力的な写真館です。
残念なことに、正確なデータはありませんが、そんな事はどうでもよくなってしまうくらい斬新なファサードをしているでしょ?
殊に、十字路に面するファサード2面の力の入れ様に脱帽しきり。
しかも、この印象的な人魚のレリーフこそ、左官職人の手による鏝絵であると思われます。この時代に活躍した盛岡市の左官職人達は、本当にモチベーションが高かったのでしょうね。
とは言え、この小原寫眞館が竣工した折には、楳図かずお氏の「まことちゃんハウス」の如き賛否両論のリアクションがあったかもしれません。
さすがに当時は、景観利益を訴える様な御仁はいなかったと思いますが、度肝を抜かれた周辺住民は多かったであろうと想像します。
そんな悲喜交々を思い浮かべながら散策していた伝吉小父なのでした。
余話:人と建物と散策
盛岡市に足繁く通うようになって以降、建築に携わってきた人間にとって、心が揺さぶられるよう出来事を幾つか体験してきました。
その一つが、旧岩手県立図書館(1967~68年/設計者:菊竹清訓)の閉館です。この建築物の屋根の棟には、岩手県出身の彫刻家 船越保武 作の「ふたば」 が設えられたはず・・・。
そんな記憶と共に、自分と同じ年齢を重ねた建物が役割を終えるという事実に深い喪失感を覚えていたところ、盛岡校の生徒(当時、副業として仙台・盛岡・山形の某資格学院で建築構造力学を教えていた。)から「先生が気にしていた県立図書館だけど、解体するのは止めるみたいだよ。」という吉報がもたらされました。
さすがに、この時は溜息しか出ませんでした。かの彫刻「ふたば」が遺ってくれることにも深い安堵を覚えました。
この旧岩手県立図書館は、平成23年7月に「もりおか歴史文化館」として生れ変わっています。彼の地の人々は賢明な選択をしたと思います。
こうした公共建築物と比較するのはナンセンスですが、本稿で紹介した写真館の様な民間建築物が、時代の波に揉まれながらも解体されずに遺ってきた(それも100年以上もの間)という事実を、私は特別な事象として捉えています。そして、建物の背景に隠れている人々に尊敬の念を抱くのです。
更に、東北の一地方都市として静かに発展してきた盛岡市にあって、昭和という時代の「ある一時期」に、写真館を営むという職業の選択に留まらず、個性的な写真館を建てるという気運が醸成されていたであろう事を、当時の人々の感性を以て受け止めてみたいと願うのです。
本稿で記してきた様な「社会の趨勢」の痕跡は、日本の地方都市に多く見られると思います。そしてまた、現在の様に価値観が多様化していなかった時代ならではの一傾向を示している様に思われてなりません。
そんな正と負が綯交ぜになった様相を観察・推理する愉しみが、身近な街中の散策に内包されていると考える今日この頃でした。
第一話から「推敲」という言葉が霧散していますね。なにはともあれ、最後までお読みいただき感謝申し上げます。