彼女は僕だったのかもしれない(中村タカというひと)
中村タカさんとの出会いが衝撃的だったので残しておく。
6月頃だろうか、偶然、こんなnoteをみつけて、偶然読んだ。
衝撃だった。
自分が書いたような文章。こんなの書いたっけ?
気づいたら、超暑苦しい感想文を彼女に送りつけていた。
自分の書いたnoteと一緒に。
そこから文通が始まった。
彼女は僕の文章を「愛と殺意がみなぎっている」と表現した。
驚いた。僕のnoteを書く理由は「怒りを愛に変える実験」だったからだ。
きっと、愛に変えられなかった怒りが憎しみとして残り、それが彼女の目には「殺意」に映ったんだと思う。
親ブロックについて、悲しいストーリーを聞いたとき、彼女にどう思うか聞いてみた。
すると、こんなものが返ってきた。
僕は、そのテーマについて書き、彼女に返した。
次第に、すごくシンプルな感情が湧いてきた。
彼女に会ってみたい。
そして、会うことに
打診したものの、そんなにすぐ会えるものではないと思っていた。
彼女はわざわざ連絡をくれた。東京に来るときに会う人リストを作っていて、そこに足してくれていたらしい。
7月彼女が東京に来るということで、渋谷のトランクホテルのカフェで話すことができた。
パシャリ。
特にアジェンダはなかったが、お互いについて、とにかく話せるだけ話した。おそらく3時間くらい経ったが、体感は数十分程だった。夢中に自分のことを話し、彼女のことを聞いた。
行動の経験は違った。ただ、思考の共通点は恐いほどあった。
昔からちょっと変な子であった
小学校の時、親に隠れて割とやばめのいたずらをしていた
小さいときから自分が存在する意味について考えていた
好奇心がなぜか人一倍強かった
思春期は生き心地を求めて彷徨っていた
彼女は舞台女優で、僕はロックバンドで生きていたかった
夢破れ、なぜか受験直前に死ぬほど勉強を頑張り、やたらいい大学に合格してしまった
大学生のときは割と意識低めだった
20代前半で世界に絶望し、死を考えた
今は、自分の命の使い方を見つけて、投げやりに、でも、大切になんとか生きもがいている
けど、いつ死んでもいいやと割と本気で思っている
家入さんが好き
ソーシャルグッドな人たちが好き
…挙げればキリがない。
終盤、「ちょっと、タバコ吸ってきてもいいですか?」とお願いすると、「私も吸いたかった」と。
喫煙所で、命を減らしながら、命について10分ほど濃いめの話をした。
その際に話したことが、割と真理に近そうなので、書き記しておきたい。
「生死の四象限」
最近僕は、人間を4つに分けている。
死にたくて死んだ人
生きたくて死んだ人
死にたくて生きてる人
生きたくて生きてる人
これは、普段そんなに話さない。割と大事にしていたアイデアだ。いつ使うねんと思いながら大事に温めていた。
恐る恐る、彼女に明かしてみた。
すると「あ、それわかります!」と。
彼女が経営するtalikiの望む世界は、生死がねじれ状態にある人、つまり、「生きたくて死んだ」「死にたくて生きてる」人を減らすことだった。
ビンゴだった。
そして、お互いに、死にたくて生きていたときの話をした。
今、おそらく僕らは、生きたくて生きている。
一方で生き延びること自体にあまり固執していない。
投げやりに、大切に、自分の命を生きている。
そして、生死の実態と希望がねじれている人のために、自分の命を使おうとしている。
…
Aviciiが死んだとき、彼の命に最大限の敬意を示しながらも、「いいなぁ」と思ってしまった。
じーちゃんが死んだとき、ばーちゃんが、棺桶で「すぐいくから、待っててね」と言っていた。
CRAZYの森山さんは「どうすればそのような本質的な考え方ができるのか」という問いに、「本質的な考え方ができる人には特徴があります。命について考えている人です」と言っていた。
よんなな会の脇さんも「父親の死を見て、逆に強烈に生を感じた」と言っている。
人生100年時代に備えましょう!というCMに「計画的に、心臓長く動かすこと自体に意味あるんだっけ?」と思ってしまう。
仮に、今死んでも、命について考えずに何となく生きている(ようにみえる)人たちを羨むことはない。でもあと一日、生きたい。
…
命について考えを重ねるようになって、僕が異常に惹かれる人の共通点を見つけた。
それは、死にたくて生きたからこそ、死ぬために生きている人たちだった。
きっと今、あまり好きじゃない(言っちゃった笑)人材業界で、毎日毎日怒り狂いながらも、ちょっとした幸せを感じ続けているのは、きっと、自分の命をなにかに使いたい人たちにとって、自分という生き様のサンプルが少しは足しになると信じているからだろう。
そして、かつて「生きたくて生きていた人たち」を馬鹿にしていた自分を、赦してもらいたいのだろう。
「究極の利己は利他」という言葉
「究極の利己は利他である」
これは先程もあげた、家入一真さんの言葉らしい。
いま、この言葉がすごく腑に落ちている。
大前提、僕は自分を極めて利己的な人間だと思っている。
ただ、上述したように、死ぬために生きていると、物とか金とかに興味がなくなってくる。ブランド物も興味がなくなってしまったし、手元のマネーに対するこだわりもなくなってしまった。
もっともっと贅沢なものが欲しくなってしまったからだ。
それは「生き心地」だった。
誤解を恐れずいえば、僕はほぼ100%自分のこの欲求を満たす為に生きている。
利の解釈が、生き心地になったとき、利己的に生きれば生きるほど、それは世間一般には利他的に映る。
自分の命を大事にしたい。命を意味のあるものに使いたい。
別にいいや、一回死んでるから。
死んでみて初めて、命を何に使うかを深く考える。
僕らはあえてそれを「使命」と自分たちで呼ぶことはしなかったが、きっと僕らには命を使ってでも証明したいことがあるし、命を懸けて救いたいのは過去の自分だった。
逆に表面的な利他精神を押し付けられるのは苦手だ。そういうのに限って、実利の見返りを求めるのが早い。何千人と会っていると、嫌でも勘が鋭くなってしまう。表面的な実利を期待してギブしては、何も返してくれないと勝手にストレスを溜められてしまう。
そしてそれを、返せる自信もないのだ。
精神的な交流を求めて
多分彼女とは一生の付き合いになる気がする。
お互いに世を捨て絶命しなければ、きっとちょくちょく会い続けることになると思う。
そして奇しくも、結果的にこういった深い精神的な交流をする相手は、女性であることが多い。
それはとてもラッキーなことだと思う。
セックスをしなくていいからだ。
互いの死生観を混ぜ合う精神的な交流は、単調な性器の摩擦よりも刺激的な快楽を得られる。
それは、刹那的な生きている感覚よりも、持続的で、ずっと濃いのだ。
その感覚が欲しい。僕はまた、彼女に会いたい。
やはり、すごく利己的な人間である。
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