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国際政治経済学講義ノート 3(なぜイズムを学ぶか)

講座の第一部では、二回に分けて国際政治経済学というものがどういう学問であるかというお話をしました。ここからが第二部となります。第二部では、国際政治経済学における三つの主要な理論的アプローチをとりあげます。自由主義現実主義(ギルピンのテクストではナショナリズムと呼ばれています)、そしてマルクス主義です。

その前に、なぜ理論などを学ぶのかというお話をしたいと思います。なぜかというに、理論というのは非常に抽象的なものです。ということは、わたしたちが日常に接する言語とは少なからず異なるものです。だから、初めて学ぶ人にはとっつきにくいものです。

専門家になるつもりもない者に、なぜそんなわかりにくいものをわざわざ教えるのか、あまりに衒学的じゃないか。そういう問いが浮かびますし、また浮かぶべきです。

まだあります。「理論的アプローチ」と言いましたが、さきほどの三つのアプローチをイデオロギーと呼ぶ人もいます。配布したテクストではイデオロギーと呼んでいますね。だけども、通常、イデオロギーというのは「虚偽」という含意があります。現実を歪めて提示するのがイデオロギーという意味ですね。そうであれば、なぜそんなものを教えるか、そんなものではなく国際政治経済の現実の方を教えてくれ、という話にもなります。

今回の講義は、そうした問いに答えるものです。

理論と事実

話の入り口として、また具体的な例から始めましょう。国際政治経済学者と呼ばれるような人びとがいます。厳密に言うと国際政治経済学者という職業はないんですが、国際政治経済学を修めて大学なんかで教鞭をとってる人々ですね。

ところが、他方でジャーナリストのみなさんのなかにも国際政治経済の動きを追ってる方々がいます。どちらも立派な仕事ですが、この国際政治経済学者とジャーナリストのちがいはどこにあるんでしょうか。

素材ではありません。どちらもやはり似たような素材を対象にしています。とすると素材の扱い方、つまり方法論がちがう。どのようにちがうのでしょう。

ジャーナリズムにおいては、ニュースの事件性が大事です。今起きていることをなるべく正確にまた生き生きと報告します。それがジャーナリズムの仕事です。学者の方もそういう関心がなくはないんですが、それは二義的関心です。学者の方は第一に、ジャーナリストなどが報道するバラバラの断片をパズルのピースみたいに組み立てて、ひとつの統合された絵にしようとします。時間的にも空間的にもより広い範囲から素材を集めてきて、それを一つの大きな絵のように組み立てるんですね。

これを哲学用語では「綜合」と呼びます。個別の要素をつなげて一つの統一された全体を構成することです。「総合的」の「総合」なんですが、これも日常用語に取り込まれていて意味が多様化・曖昧化しているので、本来の意味を指し示すために「綜合」と古い漢字を使うことにしましょう。

この綜合を理解するために、次のだまし絵をみてください。何が見えるでしょうか。

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そこに若い女を見た人と老婆を見た人がいるはずです。同じ絵を目にしながら、そこにぜんぜん違うものを見るんです。なぜそんなことが起こるのでしょうか。

線画の素材は点と線ですね。点と線の集合が空間に配置されたものが絵になる。同じ素材から異なるイメージを作り上げるのは見る者の主観である。騙し絵とは特定の点と線の集合が複数のものを表象しうるように工夫されているんですね。だから、たとえばあちらを向いている若い女の耳がこちらを向いている老婆の目にも見えるように描かれてます。

国際政治経済における素材もまた同じような性格を持っています。例えば、次のような事象の考えてみてください。

・日本やドイツの自動車メーカーの競争に敗れて、米国の自動車産業が衰退している。
・過去2、30年間、米国で中産以下の人々の賃金水準が停滞している。
・アジア・太平洋の諸国の多くが貧困率を減少させることに成功した。
・90年代に米国政府はサービス業、特に金融分野における自由化を世界中で促進した。
・米国でグローバリズムに対する反動から、トランプ大統領のような候補に支持が集まるようになっている。

一見バラバラにみえるこのようなニュースや情報には、何か相互に関係があるのでしょうか。多くの人はそこに点や線だけではなく、ひとつの絵を見ます。つまり、それぞれの素材を空間的に配置して一つの絵を構成するんですね。綜合です。だけども、その空間的配置自体は素材には見出せない。そうではなくて、見る人の視点(パースペクティヴ)が素材を関係づけるわけです。つまり、綜合というのは事物のあいだには直接観察されない関係を、観察者が推論することによって行われるんです。主観が働いているわけです。

この点はジャーナリストでも学者でも同じです。ただ、学者はそれを意識的に、またより綜合的にやろうとします。その場の事件だけではなく、古今東西の多くの事象を綜合的に説明し理解できるような配置を求めるんですね。その際に用いるのが理論、もしくはイデオロギーなわけです。

そして理論・イデオロギーに即して事実を分類整理していくのと同時に、事実に即して理論・イデオロギーもまた見直していく。理屈上は、理論と事実を往ったり来たりする作業(再帰性などと呼ばれます)が学者の本領です。理屈上はというのは、そうではない学者もまた現実にはたくさんいるからです。

世界観としての理論・イデオロギー

なぜ理論・イデオロギーなどというものに頼るのかというと、自由主義、現実主義、マルクス主義といったものは、それぞれが一つの世界観です。人間が一体どういうものであるか、歴史を動かすのはどうのような力であるか、国家と市場はどのような関係にあるか、貧困のような悪はどのようにして生じるか、などといった大きな問いに対してすでに何らかの解答を用意しているのが三つのイズムです。

世界観であるから、この「イズム」「主義」は完全には実証される性質のものではありません。「エビデンス」を出せと言われても無理なものですから、一種の信仰とも呼べるかもしれません。そうではあるけれども、一知半解のわれらがある程度一貫した政治分析や行動を行えるのは、この信仰に負うところが少なくないんです。

なんとなれば、複雑な世界全体を人間の頭で理解可能なまでに単純化するためには、何らかのイデオロギーが必要になる。というより、イデオロギーが縮尺され単純化された世界そのものなんです。この助けなしには、世界は断片的で混沌としたものの寄せ集めにしかに見えてきません。

ただし、イデオロギーと呼んでしまうと否定的な意味が前面に出てきてしまう。すでに述べましたが「虚偽」という否定的な意味が付されていますから、多くの人にとっては「お前の考えはイデオロギーに基づいている」なんて言われるのは面白くない。だから、自分にはイデオロギーなどないという人が増えている。自分はどのイズムに与せず、是々非々の態度で世界を見ているというわけです。

しかし、イデオロギーのもう一つの意味は「無意識」ということです。イデオロギーに囚われた人は自分では気づいていないことが多いんです。学者の場合はそういうわけにはいかない。特定のイデオロギーへのコミットの度合いは人によって異なるんですが、自分の議論の前提を正直に申告して、その上で素材を扱うことを要求されますから、完全に自分のイデオロギーに無頓着ではいられません。

そういうわけで、この講座では自由主義、現実主義、マルクス主義を「イデオロギー」ではなく「理論的アプローチ」と呼ぶことにしています。国際政治経済の素材を理論的に扱おうとするさいに考えられる体系的思想というくらいの意味にとっておいていただいて構いません。

素人にとってのイズム

しかし、恐らく政治経済学者にはならないであろうみなさんにとってはどのような効用があるんでしょうか。なぜそんなイズムを学ばなければならないのでしょうか。

実は、国際政治経済においては、万人が受け入れる客観的な事実というものはそんなに多くありません。たとえば「グローバリゼーション」という呼ばれる現象についても、観察する人の視点によってぜんぜんちがう解釈が与えられます。つまり、国際政治経済に関してわれわれが見聞きするものの多くは、すでに理論的な処理を経ているものがほとんどです。ということは、どのような理論で処理されたかを見極めないと、その全体の意味もまた見えてきません。

実を言うと、講座の第一部でご紹介したような国際政治経済観もイデオロギーと無縁ではありません。この講座のテクストとして採用したロバート・ギルピンは現実主義者を自認する人ですし、覇権安定論というのは現実主義的な国際政治経済観です。自由主義やマルクス主義の立場からは、また異なる国際政治経済観を書くことができます。

それは教科書として不適切である、なぜ公平な立場から書かないのか、と訝しく思う方もいるかもしれませんが、なぜかと言えばできないからです。綜合のない事実などというものは、学校で教えられる歴史みたいに、万人が認める事実だけを羅列していくようなものになってしまうからです。そんなものを勉強したところで、暗記な得意なクイズ王みたいな人しか育ちません。

さらに、先ほどの話と関係しますが、イデオロギーというのはしばしば無意識のものです。自分はイズムは嫌いである、どんなイデオロギーにも無縁である、と言い切れる人ほど、むしろ無意識のイデオロギーを疑った方がよいんですね。

だけど自分はそんなイズムについて学んだことがない、そんな言葉を聞くことさえ初めてである。そういう方もいるでしょう。しかし、イデオロギーは言語の習得の過程で自然に身についてしまうものです。周囲の人々の真似をして言語を学んでいくうちに、周囲の人たちのイデオロギーもまた自分の思考回路に組み込んでしまうんです。そうしたイデオロギーというのは理論のようにかっちりしていなくて断片的で折衷的なんですが、まったくランダムでもない。一定のパターンがある。だから政治も保革対立みたいにパターン化します。

そうであるとすると、専門家でない人びとも、いつの間にかイデオロギーに沿った考え方をしているということですね。先ほども指摘しましたが、これは必ずしも悪いことではありません。このイデオロギーがあるかぎりにおいて、われわれは複雑な世界をなんとか理解可能なものとし、またそのなかで一貫した思考や行動を心がけることができる。ただ、これが無意識であるかぎりは、自分のイデオロギーにそぐわない事実を無意識のうちに否定したり無視したりするようになる。かえって客観的な事実認識の障害になってしまうわけです。

ということで、学者でない人でも、やはりときどきは自分のイデオロギーを反省した方がよいわけです。この反省の対象になるかぎりにおいて、イデオロギーは理論に近づくということもできるかもしれません。

以下の引用は、E・H・カーという人が歴史について語った言葉ですが、われわれが見る国際政治経済の「事実」にも当てはまります。

事実というものは魚売りの板に並べられた魚なんかとはぜんぜんちがう。事実は広大でときにアクセス不能な大洋を泳ぎ回ってる魚である。そして、歴史家が何を捕えるかは、一部は偶然によるが、だいたいは大洋のどこらへんに釣り糸を垂らすか、どんな仕掛けを使うかという選択にかかっている。むろん、この二つの因数はどんな魚を釣りたいかによって決定されるんだがね。

理論・イデオロギーは海のどこら辺に釣り糸を垂れ、どんな仕掛けを使うべきかを指示してくれるものです。これに頼らなければ、あとは偶然という頼りないものに頼らないとならない不毛な実証主義に陥ってしまいます。しかし、台に並べられた魚を眺めて、大洋の魚たち全体が代表されてると考えないように気をつけないとならない。そういうことになるかと思います。限られたサンプルから全体を構想するのは綜合です。観察されたものだけを見ていてもダメなんです。

国際政治経済における主張の多くは、この自由主義、現実主義、そしてマルクス主義のいずれかに基づいています。国際政治経済に関する論争の多くは、この三つのイズムのあいだの差異から生じると言ってもよいです。念のために付け加えておきますが、それぞれの論者が自由主義者、現実主義者、マルクス主義者にきっちり分類できるというわけではありません。同じ論者が複数のイズムを用いることもあります。そうではなくて、多くの言説がこの三つのイズムのうちのいずれかに依拠しているという意味です。

ですから、専門家にならないであろうみなさんに期待されているのは、この三つのイズムを学んで、そのうちの一つを選びなさいということではありません。そうではなく、この三つのイズムを学んで、

・こんど新聞やインターネットなどである主張を聞いたときに、ああこいつはこういう前提でものを言ってるな、ということが判断できるようになってほしい。そして、

・それぞれのイズムの強みと弱みを知って、表層的な対立点の奥にあるより「本質的」な争点を見抜ける目を養ってほしい。

それがこの講座でみなさんに期待されていることです。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。