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『チャタレイ夫人』と今日の平和教育に足りないもの

「いいケツしてんな」と言う優しさ?

「教えてあげましょうか」彼女は彼の顔を見つめながら言った。「他の人が持っていなくて、未来をつくるもので、あなただけが持っているものを教えてあげましょうか?」

D・H・ローレンス『チャタレイ夫人の恋人』伊藤整訳、伊藤礼補訳

D・H・ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』(1928年)という小説の決定的な場面で、チャタレイ夫人ことコニーが、愛人の森番メラーズにこう問いかける。それじゃ教えてくれよ、というメラーズに対するコニーの答えには、ちょっと意表を突かれる。

「それは、あなた自身の、優しさという勇気よ。それなのよ。私のお尻にさわって、おめえのけつはかわいいな、と言うときの優しさがそれなのよ」

同上

なんだか意味がよくわかんない。それだけじゃなくて、セクハラや痴漢を正当化しかねないような気配がある。この違和感の源泉を分析してみると、自明なこととして聞き流せない点が、四つくらいある。ひとつは、「優しさという勇気」である。ふつう優しさと勇気は同一視されない。前者は女性的なもの、後者は男性的な美徳と見なされることが多いから、むしろ対立するような感じがする。

だが、それ以上に違和感を感じさせるのは、「おめえのけつはかわいいな」と女に言うことが「優しさ」だか「勇気」だかであるという点だろう。ぼくらの理解では、女を性的対象に貶めることは粗野とか卑劣であって、優しさとも勇気とも見なされない。

そして、どうしてそんな優しさなり勇気が、「未来をつくるもの」となりうるか? さらに、そんな「優しさ」や「勇気」なら、好色おやじや卑劣漢でも誰でも持っていそうである。「あなただけが持っているもの」とは思えない。

そういうわけで、これだけなら、愛人の間のたわいのないやりとりとして片づけられるかもしれない。だが、次に以下のようなメラーズの台詞が続くから、どう考えたって睦言に止まらない意味が込められている。

「そうだ」と彼は言った。「あなたの言うとおりだ。本当にそれなんだ。ずっといつでもそうだった。兵隊もそのとおりだった。兵隊とは日常、接触せざるをえなかった。彼らを裏切ることはできなかった。肉体的に彼らを意識せざるをえなかった――そして、きびしく鍛えるときでも――すこしは優しさをもたなければならなかった」

同上

メラーズは炭坑労働者の子だが、軍である大佐の気に入られて、中尉になっている。エジプトやインドなどに駐留して、多くの兵卒を率いた経験がある。コニーの台詞を聞いて、そのときの体験が連想されたらしい。

だが、いったいお尻の話と兵隊に対する思いやりとのあいだに、どんな関係があるのか。どうして二人の間では、これが会話として成り立つのか。「世の中には変わった人たちもいるもんですな」とか「人それぞれでいいじゃん」で読み流してしまえばよいのだが、こちとら閑人である。せっかくだから、この謎解きをしてみた。

デーメーテール的世界

少年時代に性的好奇心を文学によって満たしてた自分であるが、『チャタレイ夫人』はさすがに学校の図書館には置いてなくて、読んだことがなかった。こたび手にとってみたら、ポルノどころか真面目すぎるくらい真面目な小説で、こんな思想が20世紀に一世を風靡した歴史を隠したままで、現代社会の性教育が果して完成するだろうか、と思わせる内容であった。

解説から判断すると、最初の邦訳当時(1935年)は、ヴィクトリア朝の偽善的性道徳に反旗を翻した書という解釈に止まったようだが、マーティン・グリーンの『リヒトホーフェン姉妹』といった伝記を読むと、思想的にはバッハオーフェンの母権制から、フロイト精神分析(というよりオットー・グロスのそれ)などに拠ったドイツ的父権社会への抵抗に近いらしい。だから、「大いなる母」が支配するデーメーテール的世界観みたいなものが、小説の背景にある。

デーメーテールというのはオリュンポス十二神の一人で、穀物の神とされる。だが、もとは地母神的性格をもった神である。その娘ペルセポネーは、冥王ハーデースにさらわれて冥界の女王になってる。引き裂かれた母子を気の毒に思ったゼウスは、一年に一度の娘の帰省を許す。冬の間枯れていた生命が再生する春の訪れがこれである。

もとをたどれば、すべてのものを生み出し、また呑み込んでいく大地を女の胎にたとえた信仰である。たが、比喩を現実の表現と信じる者には、大地と胎の関係が逆転してる。大地が胎に似てるんではなくて、胎が大地に似てる。下等な動植物は湿地帯のように土(女性)と水(男性)が混じるところから自然に生じる。人間のような高等な動物は、女の胎の闇から生まれてくる。

つまり、女の胎は生命を生み出す大地の一部であり、女性は地母神の分身である。だから女性を傷つけたり侮辱したりすることは、万物を生み出す母胎たる大地を冒瀆することになる。加えて、地母神は誕生だけではなく、死も司る冥界の女王でもある。さらに、女性や女性の胎から生まれた者に対する侵害を裁く正義と法の神でもあり、また侵害者をとことん追いつめる復讐の女神でもある。この女神の恩寵を乞い、また怒りに触れないようにするためには、女性を尊重しなければならない。この信仰が女性支配を正当化した。

母権的信仰は基本的に唯物論的になる(ただし物質と精神が分離される前の、物質にも生命力が溢れているマテリアリズム)。物質の循環によって人も動物も草木も、果ては無機物までもが生まれては亡びていく。母の胎から出でたものは、母の胎に帰っていく。生まれたものはすべて平等であり、母はすべての始まりであり終わりである。

歴史の時間とはこの循環であり、生成と滅亡の果てしない繰り返しである。人間の精神性が滅びる肉体を捨て去って、永遠の相の高みに飛び去ってゆくには、父権制の登場を待たねばならなかった。父権制においては、父から息子への「継承」が可能になり、繰り返しではない蓄積が生ずる。歴史が直線になる。

遠い過去に母権制が支配的な時代があったという説は、バッハオーフェンという19世紀のスイスの歴史家が『母権論』(初版は1861年)において提示したものである。この書物において、彼は人類の歴史的発展を三段階に分けている。このデーメーテール的世界は、それ以前のアプロディーテー的世界と、それ以後のアポローン的世界の中間に置かれている。大地と太陽の時代の間の月の時代、乱婚制と父権制の中間で、男女両性のあいだの和解・協調に特徴づけられる世界である。

『母権論』においては、母権制は女たちが宗教的感化により男たちを教育し、獣的なものから精神的な存在に引きあげる弁証法的歴史の一段階とされている。だから、アポローン的父性が登場した段階で、その歴史的役割を終えている過去である。だが、ビスマルクという象徴によって支配されたドイツの父権帝国において、母権制を過去ではなく未来へと投射する思想を生み出すことになった(「未来をつくるもの」)。ローレンスは英国人だが、その愛人フリーダ・ローレンス(リヒトホーフェン姉妹の妹で、オットー・グロスの元恋人)を通じて、そうした思想を吸収した。

著者の意図に反してそう読まれるようになったのには、それ相応の理由がある。バッハオーフェン自身が、母権制に両義的な感情を抱いているようなところがある。一方では、母権制は物資的世界の闇に囚われた未開の段階であり、血腥い復讐の法などに結びつけられてる。人類が精神的、進歩的、開明的な段階に達するには、アポローン的父権制の到来を待たねばならなかったとされている。人類の進歩を物質性から精神性への高まりと理解する、ドイツ観念論的な歴史哲学に則った理解である。そして、父権制が勝利をおさめたのは西洋であり、これが西洋文明の輝かしい功績であると讃えている(アジアはより女性的段階にとどまっている)。

だが他方で、女性は平和、秩序、正義、愛、寛容という、アポローン的信仰に帰せられたものにも結び付けられている。バッハオーフェンはバーゼルの貴族で、女性支配にしろ、男性支配にしろ、その極端を避けて中庸を好むような保守主義が感じられる。伝記的情報があまりないので想像にすぎないが、おそらくそこには、19世紀当時の性風俗への批判的眼差しが反映しているのではと思われる。ロマンス語圏(特にフランス)の性的放埓とドイツ(特にプロテスタント・ドイツ)の女性蔑視の性的禁欲の両極端に対して、中庸たるデーメーテール的世界(南独・スイス貴族の世界?)を対置したんではないだろうか。

過去の遺物? 未来の理想?

当時の学界からは完全に黙殺された『母権論』は、まわりまわって20世紀の現代思想に大きな痕跡を残した。ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』はその一産物であるが、おそらく柳田国男の『妹の力』などにも及んでいるから、相当射程が長い。母権論の観点から柳田を読み直すと、きっと面白い発見がたくさんあると思う。

ここで、冒頭の台詞の謎に立ち戻ろう。まずは、「おまえのけつはかわいいな」が「優しさ」であるという点である。この点は、コニーと彼女の夫たるクリフォード卿との関係を考慮するとわかりやすい。戦場で負傷し、性的に不能となった夫は作家になり、精神世界に生きている。肉体的なものを蔑視している。

だが女性原理は物質的なものを重んじる。肉体を否定されることは女性を否定されるに等しい。だから、クリフォード卿はコニーに依存しているが、その関係には一種の残酷さがつきまとう。たとえば、自分で跡継ぎを作れない彼は、コニーに他の男と交わって子を作ることさえ提案する。誰が父親であるかは問わない、そうすれば自分はそれを自分の子として受け入れよう、というのである。頭からアテーナを生んだゼウスみたいに、女と肉体的に交わらずに父になろうというのである。

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