見出し画像

ぼくらの体に穴や隆起があることの意味

まえおき

絶賛大不評連載中の笑いの文化シリーズの続編。いままで書いたものにつけられた「いいね」の数に鑑みて、どうやらこの話題にはあまり人望がない。そんな話を続けても、自分にも他人にもいいことはひとつもなさそうだが、そこそこ読まれてるのに「いいね」がつかない話には、ただつまらないとか理解できない以上のなにかがあるかもしれない。気に入らないけど気になる、認めたくないけど知りたいというような葛藤があるかもしれない。だから、いいねがたくさんつく話以上に、ぼくら自身を理解するのに役立つものがあるのかもしれない。

もう打ち切りにしようかと思ったが、これを口実に、もう少し続けてみることにする。今回の話は、先に紹介したミハイル・バフチーンの作品からのほとんど受け売りで、この笑いの文化に関係している。場所がらを考えて、あまりに露骨な表現や具体例は控えてあって、少々抽象的な話にとどまってる。それでもちょっとグロい内容なので、気になる方は読まない方がいいかもしれない(バフチーンはこの芸術的傾向をグロテスク・リアリズムと名づけている)。逆にもっと知りたいと思う人は、バフチーンの本やラブレーの小説などの方に直接あたってほしい。

そんな文章に「いいね」はあまりつかんだろうが、気に入られずとも何かを考えるきっかけになれば、それで自分はよい。

開かれた身体

さて、民間文芸においては、体にある亀裂や穴、そして突出した部分が、グロテスクなまでに強調される傾向がある。性器に加えて口、鼻、突き出た腹、尻、乳房など。どちらも食欲や性欲と関連していて、閉じられてるはずの生物学的個体の肉体と外部世界とのつながりを示してる。

亀裂や穴は文字通り肉体の内部への通路であり、外の世界のものが取り込まれ、また排出される入口や出口である。目に見えない亀裂や穴もあるが、民間文芸で注目されるのは誰にでも見えるやつである。先般紹介したデ・マルティーノの『呪術的世界』では、悪の力が侵入したり、魂が肉体から脱け出したり奪い取られたりするのも、これらの穴や亀裂からである。耳や鼻の穴などに入墨やアクセサリーなどが飾られるのも、魔除けの意味があるらしい。身体の内部と外部との交通を制御する目的である。

逆に、突出部は自分の外部にあるものを求めて隆起したもので、世界に自分を挿入し、他者の注意を惹き、挑発する。そうやって個体を他の個体から分け隔てる障壁が相対化されてしまう。

人間の体に亀裂や穴、隆起があるということは、ぼくらは自分の中に他者を引き入れ、また他者のなかに侵入していくものとして作られてるということでもある。肉体と世界、肉体と他の肉体が互いに入り混じりあって渾然一体となったような状態が古い宇宙観にはあるんだけど、その宇宙観に対応した肉体のイメージだ。生殖とか死だけではなくて、食うとか排泄するという現象も、宇宙的な生命の循環のイメージのなかで捉えられていたようだ。

そうであるから、この身体観は社会観にも投射される。ひとびとを隔て引きはなすあらゆる社会的・文化的差異は人為的なものであって、その枠に囚われてるのは本来あるべき人間の姿ではない。これが民衆のラディカルな平等観につながる。この平等は、ただ想像されただけではなくて祝祭の時には実際に生きられた。

フランス革命研究のある専門家が言っていたけど、近代の民主革命にもこの祝祭的雰囲気が濃厚で、市民の間の平等を表現するようなあらゆる表象手段が求められて、それが革命の最大の遺産になった。政治経済制度の変革よりもこちらの文化的シンボルの方が、後世への民主的遺産としては影響力がより大きかったかもしれない。

閉じられた身体とその批判者

だけども、バフチーンによれば、成熟した民主社会では、どういうわけか肉体の裂け目や突出部への関心は、公けの領域からは追放されていった。食欲や性欲は純粋に私的なものになって、公のイメージでは、人間の体は表面がつるつるした平らなもの、閉じられたものとなって、身体内部の働きはひと眼から隠されるようになった。そして人間の平等の根拠は肉体ではなくて、純粋に精神的、道徳的な次元に置かれることになった。

だが逆説的に、それが物質的・肉体的ではなく精神的、道徳的卓越への欲求を一般に広める圧力ともなった。他人と平等であることに我慢できない個人や民族は、精神的・道徳的な卓越を目指すことになったのである。19世紀における「文化」や「歴史」の概念の台頭は、この欲求と密接な関係がありそうに思えるが、自分もまだ調査しきれてない。

これもまた仮説に留まるが、この逆説のもうひとつの側面は、個体間のしきりを取っ払うものであった肉体の平等性が否定された結果として、今度はあらゆる差異を身体化することによって政治社会的位階を正当化しようという思想や運動に結びついたこと。人種とか性別、障がいの有無などが政治化されるのもこの文脈だ。肉体的共通性を軽視して、肉体的な差異の方を誇張する。それが精神をさえ規定するのである(たとえば、肌の色とか性別が知性の働きの限界まで定めてしまうと考える)。

人間を分け隔てるのは精神や文化ではなくて身体であるという考えが、近代の差別において重みを増したのは、人為的なものは自然なものに還元されることによって正当化しうるという自然主義的哲学を前提にしてる。だから科学全盛の時代には、かえって社会的に作られた差異を身体化し、自然化しようという誘惑が働きやすい。そうすることによって、差別が哲学的に正当化される。自然科学者の少なくない者が社会的差別を擁護したのも、あながち偶然ではないかもしれない(差別に反対した科学者もまたいたんだが)。

その半面、差異の身体化はあらゆるイデオロギー・スペクトラムに広く見られる傾向なんだが、特に右翼がこれを頻繁に活用したのは、精神的劣者として貶められた者の抵抗という意味もあった。精神による差別に対して、肉体による差別で対抗しようとしたという一面があった。

どちらも人間の平等性を否定するものであるから、平等主義の観点から見ると目くそ鼻くそなんだけど、闘争に勝利したのは精神的差別主義者の方だったから、肉体的差別主義者ばかりが反省させられてしまったようなところがある。

それでも、裂け目や突出部をもった身体というグロテスクなイメージは、個人化、貧困化しながらもいわゆる大衆文化に生き続けており、ときどき「文化的なもの」、「歴史的なもの」のもつ抽象性、虚飾、傲慢を笑うために持ち出されてくる。人間自体をグロテスクな化物として笑い貶める文化は、そうやって平等性を主張し続けてきた。

こんにちまた肉体的差別の思想が復興したかに見えるのは、実は精神的差別の方の反省を怠ってきた反動でもある、と自分は睨んでいる。差別が残るかぎりは、差別で対抗しようとする運動が残り続ける。リベラルが反省を迫られているのも、ひとつはそこにあるんじゃないかと自分は考えてる。

その反省の材料として、亀裂や穴、突起部をもつ肉体、自己完結しない肉体なんていう民衆的な身体観が意味をもってくると思う。好事家的、雑学的な知識じゃなくて、今を生きるぼくらにとって意義がある話じゃないかと思う。

貶められた女性の称揚

ここから先は

1,928字
この記事のみ ¥ 300

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。