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【中編】トゥンジュムイの遠い空⑤

 二十五年前、男(トクスケのこと)は地元の小学校に通っていた。勉強はからきしダメで、算数は少しは見込みがあるようだが、そもそも演習プリントの問題文の読解からしてあやしく、とてもじゃないが勉学で身を立てるような人物ではない、というのが当時の教師の、男への評価であった。とはいえ、勉強が苦手な生徒というのはいつの時代でもいて教師という人種はそこらへんの消息をよく分かっている。勉強が苦手な生徒であっても、世の中というのはよく出来ていて身の立て方はいろいろある。明治以降構築された学制においては、むしろそういった子どもたちに対して、最低限触れるべき教養や集団行動において守るべきルールやマナーを教示することが重点目標のようであった。簡単に言うと国民の質の底上げである。主権が一部の支配層からより広範な民主に移ろうとする、時代の大きな流れの中において「国民の質の底上げ」は確かに急務であった。

 それはさておき、小学校に入学した男は、すぐにここは自分の居る場所ではないと思った。男がそう思うように周りにいる人間も男を異物のように感じているのだった。

 そもそも男は授業を受けても先生が何を言っているのかまるで分からないのである。先生が個人的に話しかけてくれて「昨日は何を食べましたか」とか「体調は大丈夫ですか」とか「寒くなってきたので風邪を引かないようにしましょう」などといった問い掛けには受け答えできるのであるが、先生が教壇に立つと仰っていることの殆どの意味が受け取れなくなった。板書となるとさらにひどく、黒板の上に綴られていく奇怪な文様については全く分からないでいたのである。おそらく男は漢字を一字たりとも覚えることができなかったのではないかと思われた。平仮名は解したが読み取るのに時間がかかった。片仮名は分からない文字がいくつかあった。筆写は全然出来なかった。授業態度はとても良かった。私語や悪ふざけは一切せず、背すじをぴんと伸ばし真っ直ぐ先生の方を見ていた。

 はじめ担当の教師は男のことを、例によって勉強はできないが真面目で礼儀正しい、勤勉な未来の良き市民たる好人物だと思っていた。実際六歳になったばかりの男は、イガグリ頭の、表情に乏しいものの温和そうな顔をしており、たとえば「一番好きな食べものは何ですか?」と聞くと「餅です」とちゃんと敬語を使った受け答えをすることができた。教師に馴れ馴れしい態度を取ったり、ベタベタしてくるということもなかった。

「皆さんが、今一番欲しいものは何ですか?」とある日教師は生徒たちに呼びかけた。

 しばらくしてニョキニョキとちいさな手たちが挙げられた。教師が指呼すると生徒が立ち上がり「双六です」と言ってから座った。またある生徒は「独楽」と言い、次の生徒は「どうしても、自転車が欲しいです」と言った。おどけた顔で「こいびと」と言う生徒がいて教室の笑いを誘った。「スケベ」と野次があったりした。

 挙手した生徒たちの発表が終わった。「ハラ君はどうですか」と何気なく教師が言った。

 男は一瞬目を丸くしてから、ゆっくりと席を立った。男の目は天井を見、黒板を見てから教師の方を向いた。「どうですか」教師が笑顔でうながした。教室がシーンとなった。男は何も言わないままなのだった。何も言わないでただ立っているだけで、教師の方を見ているのであった。表情は無く、ただ段々と目に陰が下りてくるようなのだった。クス、クスと誰かが笑うと、笑いは教室に伝染して空気を細かく震わせていた。しまった、と教師は思った。鐘が鳴り、級長が号令をかけてその時間は終いとなった。自分は思い違いをしていたのかもしれない、と教師が気づいたのはその日が初めてのことだった。

 男はすぐに教室で軽んじられるようになり、悪ふざけや嘲笑の対象となるようになった。「ソンスケ」と誰かがあだ名をつけて、その呼び名はすぐに学校中に広まった。これは、トクスケの「トク」を「得」と読み変えて「得」の対義語である「損」をその名に当て嵌めたものだった。男は学業においては絶望的に何も出来ないのであり、体を使う教練においても、こちらは十人並みであったがかといって特に目立った活躍もしなかった。ただ体は生来頑健で、その膂力も中々のものを持っているようではあった。しかし何より、男がそのあだ名の意味する「損」を被っているのは人間関係におけるコミュニケーション能力の欠如のようであった。

 人に聞かれたり問われたりした場合、男は短い言葉ではあるが受け答えをすることが出来た。しかし、自分から何かを言ったり、質問をしたりといったことは絶対に出来なかった。典型的な例として挨拶があった。男は朝登校して職員たちから「おはよう」と言われると、「おはようございます」ときちんと返すことが出来た。出来たどころかその様は語先後礼の所作を自然と身につけていたとでもいうような、気持ちのよい挨拶なのだった。しかし、自分から挨拶をすることは絶対に無かった。出来ないというより、そんな方法がこの世にあるということ事体を知らないみたいなのだった。男の内面は誰にも解らないものであった。

「ソンスケ」とおどけた声が背後から近づいてきて子どもの手が男の首根に触れた。その手はしとどに濡れているのである。男は立ち止まり、災禍が通り過ぎるのただ待った。するとあちこちから複数の笑う声が聞こえてきた。子どもというのは自分より劣っている者を見ることに何ともいえぬ愉快を感じるもののようだった。また、快楽は次の段階の快楽を求めるという習性を持つようで、したがってこのような不愉快な行為は発達するのが摂理のようであった。また、男はこのような行為に対して、報復するとか言い返すということが出来なかった。本当に、男にとっては、自分から何かを発するという行動の方法が一切解らないのであった。だから、子どもたちの嗜虐的行為は自然とエスカレートせざるを得ないのだった。その行為の詳細について、筆者はここに書きたくないし、書かない。そもそも僅か六歳の身空で「損介(ソンスケ)」なぞとあだ名を付けられた事実からして、子どもの頃の男の心情を慮ると胸が張り裂けそうになる。

 子どもたちの行為はエスカレートし、やがて学校の教師たちにも知られるところとなった。職員の中にはこんなことはよくあることだという声もあったが、担当の教師は事態を重く見、特別授業を行なった。その授業の内容は「自由・平等・友愛」をテーマにし、特に「友愛」について重点的に生徒に考えさせようとするものだった。また「情けは人の為ならず」という慣用句の解説も同時に行なわれた。生徒たちは普通の顔をして、分かっているのかどうか、可愛い顔を教室に並べていた。

 男と同じ教室にエイショウという生徒がいて、当時教室の級長をしていた。この子どもは右足の動きに多少の支障があるらしく杖こそつかないが歩き方に特徴があった。「ソンスケ」騒動が起きた当初、エイショウもまた教室の悪童やお調子者の輪の中に入り、囃し立てたり運動場にまで響くような声でケタケタと笑ったりしたものであった。が、しかしそのうち過熱する一方の理不尽な排斥的・差別的行動にうんざりし、さらには義憤にかられて、かような行動は今後一切慎むべきだとの提案を休み時間の校庭で行ったのであった。「は?」と根性の悪い子どもは口を開け額に皺が寄るような表情の動きを見せた。「やー(お前)、あいつの味方だば?」。子どものくせにどこで覚えて来たのか性悪の生徒はちいさな体の胸を張って凄んで見せた。エイショウは全く動じなかった。

 エイショウは汀良の人でその母は朝市で野菜を売っており、父は石嶺で小作農をしていた。 「義を見てせざるは勇無きなり」というのはその母の口癖のような、よく言う言葉で、エイショウにはまだよく意味が分からなかったが「ユウナキナリ」の「ユウ」は勇気のユウだろうと検討はついていた。

 納得がいったわけではないが悪童たちがひとまずはエイショウの提案に従った様子を見せたのはひとえにその影響力及び指導力にあったといえる。級長という立場もあったが、何よりエイショウは勉学において抜群の成績を修めていた。才気煥発、発表を行う際や自作の作文を読む姿は堂々としており、自分の意見を理路整然と述べることができた。また、エイショウは声がよかった。大きな声というわけではないが音がよく通り、幼いながらその内面にある慈愛の深さが声によく反映されていた。歌もうまかった。

 そういうわけで、騒動はひとまず治ったようであった。エイショウはある日の放課後に男を呼び止め、「すまなかった。本当に申し訳ない。ああいうことは今後二度としない」と言って頭を下げた。偉い人間だ、と男は思った。男の胸の内に、何かやわらかくて温かいものがポトと落ちてきたような気持ちがした。男はこの日のエイショウの表情や運動場の上の雲一つない空、落ちてくる強い光とその下にある濃い影、その影の方から吹いてくる風の匂いまで、この時間に起こったことをよく記憶し忘れなかった。

 教師は男の扱いに苦慮した。まず、男が何が出来て何が出来ないのかを知ろうとした。そこで分かったのは、勉学において四則計算以外は何も出来ないということであった。しかし問題は学力面にあるのではなく、極端な交流能力の低さにあると教師は考え非常に心配したのだった。ある日、校長先生が鬼餅をたくさん持ってきたことがあって、欲しい生徒は職員室の窓口に取りに来なさい、と教師を通じて生徒たちに連絡がなされた。昼食時間になると生徒たちは我先にと職員室へ走るように集まってきた。実際に走った生徒は叱られた。男は随分あとからやって来た。その頃になると職員室の窓口は干潮のように人の姿は殆ど無かった。窓口の脇には月桃の葉に包まれた鬼餅がいくつかまだあった。だから、もし男が鬼餅を欲しいのであれば、ただひと言、窓口から職員室内に向かって、くださいと言うだけで済む話だった。しかし男は何も言わずに窓口から少し離れた場所に立っているだけなのだった。状況からすれば男が鬼餅を貰いにきたのだろうという推測は十分に立ったが、あるいはもう餅は食い終わって別用で職員室に来たのかもしれなかった。男の振る舞いは―といっても身動きひとつしないのであったが―傍目には全く計り知れず、ただその場に異様な気配として存在しているようだった。

「ムーチー(鬼餅)かい?」昼飯を済ませたある職員が男に聞いた。

 男は背を真っ直ぐにして職員の方を見、何か言おうとした。しかし何も言葉は出てこなかった。男は頭を下げると踵を返して教室の方へ歩いていった。

「知恵遅れのケがあるのでしょう」とある日先輩の教員が言った。「そういう子は存外いるものですよ。あの子は三年で出る子でしょう。ナニ、学校を出れば何とでもなるものです。生き方はいろいろありますから」

 しかし男を担当する教師はどうしても気になるようであった。あの子はそういうタイプの子ではないだろう、盲目とか聾唖とか体に不自由があるとかいった見てすぐに分かる特徴とは違って内面に、心に何かしらの欠損を抱えているに違いない、と教師は考えているようだった。現代であれば男の特性について、例えば発達障害とか自閉症スペクトラムとかいった診断がついたのかもしれない。そして学校の種類を変えたり外部機関に繋げたりとかいった手立てがあったのかもしれない。しかし戦前の教育現場ではまだそれほどの知見もなかったし、人員的な余裕も無いようであった。

 教師は県女子師範学校を出たばかりの職務に熱心な人物だった。だから、男に対してさまざまな手立てを講じて良いところを引き出し伸ばし少しでも成長するよう導こうとした。たとえば教師は男に歌を教えようとした。はじめは全くだめだった。「一、二の、さん」と言って一緒に歌おうとするが男の声は出て来ないのだった。教師は男の手を握った。汗で湿った温かい小さな手であった。そして粘り強く一緒に歌の練習をし、やがて男の口から声が聞こえるようになった。数日すると、男は一人で歌えるようになった。小さな声ではあったが。
 
七里ヶ浜のいそ伝い  
稲村ヶ崎 名将の
剣 投ぜし古戦場
極楽寺坂越え行けば
長谷観音の堂近く
露坐の大仏おわします
 
 またある日、教師は男に「大人になったら何になりたいですか?」と問いかけた。教師は、男の異様なコミュニケーションの様態について、男がけして自ら発話しないことから生じる違和感だと気づいていた。人にものを頼んだり、自分の希望を述べたりするという能力の欠如は、男の将来において必ずや致命的な影響を及ぼすだろうと教師は心配した。そこで教師は、まず男が未来の目標を言語化し、さらには自分の志望というものを意識することができるようこの問いを立てたのであった。

 例によって男は全然言い出せずにいた。難しく考えなくてもいい、と教師は言った、ゆっくり考えればいいと。そして教師は自分の話をした。小さな時から教師になりたくて一生懸命勉強してきたこと、吝嗇な父親、怒りっぽいが誰にでも親切な母親、歌と三線の上手な遊び人の兄たち、肺病で死んでしまった姉…いろいろな話を男にしてくれた。

 そんなある日、「兵隊さん」と男が言った。教師はニッコリと笑い、がんばってくださいと言って男の肩に手をおいた。

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