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【中編】トゥンジュムイの遠い空⑥

 本稿で語られるエピソードは主人公(トクスケ)の生まれる大正三年(1941年)を起点に昭和二十年(1945年)の四月頃までを描いている。

 この章では、稿の起点をさらに遡り、中世から近現代に至る沖縄(琉球)の都市部、首里・那覇の変遷を簡潔に叙述する。内容は主に『古地図で楽しむ 首里・那覇』を参照している。引用は「 」でこれを示す。この章はトクスケが生まれ育った首里・那覇の歴史を、より立体的に奥行きのあるものとして記録しようとの意図の元に書かれる。読者においてこの意図に興味が無いという方は章を飛ばしても全く支障はない。前項の物語の続きは本章において一片も触れられないし、登場人物たちの過去来歴に触れるものでもない。ストーリーの先を急ぐ読者は本章をスキップして次項六章にそのまま進んでもよい。

 「赤瓦の街並みの向こうには漆喰で白化粧した墓地群が広がり、郊外の壺屋(ちぶや)の窯や瓦窯からもくもくと煙が立ちのぼっている。(中略)露店が並ぶ市場は女たちで賑わい、馬場では男(中略)が琉球競馬で大いに盛り上がっている。そして夕暮れになると、どこからともなく三線の音が流れてくる。沖縄戦で壊滅する前の首里と那覇の都市風景である。」

 琉球の総人口は1660年代には十万人だが1670年代になると急速な増加を見せ、1748年には二十万人に達した。その後、十九世紀には減少を続け、十三万人まで減らしたが、その間も首里・那覇の人口は増え続けた。都市部の人口は1650年代には約一万四千人であったが、百年後には2.4倍に、そのまた百年後の1838年には4.7倍の六万四千人余に膨れ上がった。人口はとくに首里で大きく増え、中でも士族の増加が著しかった。ウシの長女がいつの日か言っていた通り、首里という土地はもともと丘の上のちいさな町であり、急速な人口増大は住宅不足や物価高騰などの社会問題を招くものとなった。

「王府は、無職諸士対策として、首里城の警護役に田舎人(地方の百姓)が就くことを禁じて首里の諸士に限定し(中略)、王府役職の新設や輪番制によるワークシェアリングで諸士の就業機会を増やしている。」

 また、官職以外の就職を禁ずるという制度を大幅に改正し、士族が「絵師、包丁、諸細工、船頭」等の職に就くことを認め、さらには「屋取(やーどぅい)」といって都市部の士族が田舎に下って農業に従事することを推奨した。

「人口増大の後には必ず死者の増大が訪れるが、これは墓地群の出現となって現れた。(中略)墓の漆喰化粧は、士身分の墓に規制されていたので、白い墓地群は首里・那覇周辺にだけみることができた景観だった。」

 近世人口が増えた首里であるが明治期に入るとやがて都市としての重要な機能は那覇の方に移ってゆく。その前段として先にも述べた都市部の宅地不足対策として「王府は(中略)沿岸の低湿地を干拓して大規模な宅地造成」を進めていった。1733年に久茂地川沿いを造成したのが久茂地村(クムジムラ)で、また、潟原(かたばる)と呼ばれる干潟には入浜式の塩田があり製塩が行われていたが宅地化も進み泊前島、泊兼久といった集落も形成された。というように、新集落に人口が流入するようになったのが近世の那覇である。

「明治期になると、那覇にはさらに拡大していく埋め立て地と、日本政府が次々と建設した県庁舎、役所、警察署、監獄署、明治橋」があった。一方首里は丘陵台地状の地形のため新たに造成する土地はもう残されていないようであった。

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