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【中編】トゥンジュムイの遠い空⑦

 1944年十月十日、午前七時前に那覇への爆撃が始まった。米軍によるものである。当時、ひめゆり学園(沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校)の寄宿舎で生活していた島袋淑子は次のように記している。

「一九四四年十月十日、当校で重要な軍の会議があると先生方は言っていました。私たちは寮におりますので、ちょうどその日は、首里に行く道路から学校の校門までの五十メートルくらいある相思樹並木の掃除をしていました。
 朝六時起床ですから、六時半ごろだったと思います。掃除をしている時に、ウーッウーッウーッと空襲警報のサイレンが鳴りました。『みんな戻ってこい』と呼びに来ましたので、寮に素早く戻って、運動場の相思樹の下にある掩蓋も何もない壕に避難しました。
 まもなく空襲が始まりました。いつも飛んでいる飛行機とは全然違うかたちの飛行機が、翼をキラキラ光らせて、首里の方から港に向かってシューと真っ直ぐに低空していくのです。敵機だ!敵機だ!ということで、ここでは危ないので、一高女の生徒は『西の壕』に、私たち師範生は『東の壕』に避難しました。(中略)
 夕方になって、飛行機が飛ばなくなってから外に出てみますと、那覇の街は火の海になっていました。」

 米軍による空襲が始まったのは午前六時四十分ごろである。空母から飛び立った爆撃機は延べ一四〇〇機、攻撃は午後四時まで五波にわたり、第三波までは沖縄本島全域の飛行場、港湾施設、船舶などシラミつぶしに破壊し、第四波、第五波は那覇市に集中して全市の約九割を焼き払った。

 この大空襲の後、沖縄の住民たちは戦争を身近に感じるようになった。首里に暮らす人々の中にも、やがて戦火に巻き込まれる前に老人や子どもを安全な地域に疎開させるべきではないかと考える者たちもいた。

 ウシの長女、その頃は遠く山原に嫁いでいた。その長女は、必ずや首里は大規模な戦火に見舞われるはずだと考えていた。その根拠は首里城地下に置かれた第32軍の司令部を、米軍は必ずや破壊しに来るであろうというものであった。長女はウシに長い手紙を書いて寄越した。この長女は文筆の立つ人で、ひとたび筆をとれば文章はスラスラと走り、一のことを十にして書くというようなところがあった。

 その長々しい手紙の内容は、兎に角今すぐ名護にいる私の所に来るべきだというものであった。事態は風雲急を告げており、残された時間は全くないのだと。また、長女はこの戦争に勝ち目があるとは考えていなかった。しかし、負けますとは書けなかった。手紙はいつ検閲されるか分かったものではなかった。そういう時代であった。

戦ひに果てしわが子も 聴けよかし―。かなしき詔(ミコ)旨(ト) くだし賜(た)ぶなり

 これは折口信夫の短歌である。短歌に託してウシの長女はこの戦争の必敗なることを伝えようとしたらしいのである。ウシが理解したかどうかはかなり怪しい。やはりここはたとえば「国破山河在」に始まる有名な詩句の方が適当だったのかもしれない。が、それではあまりに露骨過ぎる、危険なメッセージなのかもしれなかった。

 ウシの次女は大空襲のあった同じ月の下旬に、すでに姉を頼って名護に疎開していた。その頃ウシはすでに夫を亡くしており、二人の息子は出征中であったから、すなわちウシは一人でトゥンジュムイに暮らしているのであった。疎開はそのうちするつもりではいた。首里から名護までは約60キロの道のりである。ウシはその年五一歳になっていた。疎開は年老いた女一人では難しく、近在の親戚筋に壮年の男がいて、その一家と一緒に疎開するという予定でいた。いつ出発するか、いつ準備をするかという話もよくしていたが、何しろ地元には土地や家屋もあり、夫の眠る墓もある。そのうち、そのうちということで出発の日はずるずると延びていった。

 名護にいる二人の娘はウシの安否を毎日のように案じており、長女の係累が首里に上ってウシをこちらに連れて来るという案も出された。が、時局がら中々手が空かず、それも難しいようであった。長女の長い手紙はその頃送られたもので、その中には「兎に角どうしても疎開せねばなりません。それも可能な限り、早く。本島南北の交通は必ずや遮断されます。そうなってからでは何もかもが遅いのです。家や畑、墓はたしかに大事です。しかし、それもまずはお母さんの生命が安心安全であってからの話でしょう。お願いです。お願いですから今すぐに疎開なさってください。荷物など手に持てるだけでいいのです。どうか、お母さん一人でも今すぐ出発なさって下さい。」と書かれていた。

 そのうち、年末になると大規模な防衛招集や徴用が実施された。32軍は1944年の十一月に「県民指導要綱」という方針をまとめ、六十万県民の総決起を促し総力戦体制への移行を急速に推進していた。兵力不足に陥るなか、防衛招集の対象は五二歳まで広げられ、また十五歳以上十七歳未満の少年たちも招集された。女子学生も、弾薬の運搬や管理、または陸軍病院での看護等の作業に動員されるようになった。

 ウシと一緒に疎開する予定だった親戚の男も十二月に招集された。となると、残された男の一家もウシも八方塞がりのような状態になったのであった。ある日には、ウシは一人ででも出発しようかと思うときもあった。が、明日、また明日というようにグズグズしているのであった。ウシには決められない、大きな運命の中にいるような気がすることもあった。いっそのこと……という気持ちもあったのである。また、地元にはウシの長女の意見とは反対の、32軍司令部があるからこそ安全なのだ、そもそも軍は住民を守るものなのだから、という声もあった。また、疎開という行動について、敵前逃亡とでもいうような、後ろめたい行動だと見做すようなそんな雰囲気もあったのである。

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