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【連載小説 中篇予定】愛が生まれた日㉕ていおうせっかい、浮浪者の水死体とリコーダーのテストの日、警察からの確認の電話……人は何故切るのか

 おれはメス(刃物)をパレットに戻した。

 かちゃ、か、かか、ちゃ。

 指の震えがひどい。というか全身がふるえている。はっきり言って立っているのもやっとだ。マスクの下の顔は真っ白だろう(たぶん)。

「ゆきこ」

「どうした」と由希子。

 どうしたもこうしたもない。無理、無理無理。

 ユキノシタは死んだように寝ている。顔が白い。そして露出した腹が異様にでかい。水死体みたいである。

「JJ」

 高校生の時、龍潭(池、高校のちかくにあった)にうかぶ浮浪者の死体を見たことがある。皮膚は真っ白で、腹が異様にふくれていた。あの頃(三十年以上前)は首里城周辺ですら、まともな状態ではなかった。戦争が終わって、まだ五十年も経っていなかった。

「JJ。しっかりして」

 おれは立っていたが、座っていた。そんな感じ。全身がガタガタ震える。とめられない。そもそも手がふるえている。どうしていいのかわからない。

 小学校の時の音楽の時間、その日はリコーダーのテストの日だった。おれは朝から普通ではなかった。洗濯機を見下ろしていた。大丈夫、だいじょうぶおれならできる。言い聞かせていた。言い聞かせたということは、大丈夫でないということである。

 案の定、テストでは指がぶるぶる震えて。嗤われた。

 しかしそれでもおれの奏でるリコーダーは美しかった。誰よりも課題曲の要諦を知り尽くして、それを管楽器に吹き込むことができた。

 歌えば、うたもうまかった。隠し通すことはできなかった。音楽の先生に学芸会の「杜子春」の主役をやらないか。オーディションをするから放課後に来なさいと言われた。いわれたのである日の放課後に行った。

 おれはわざと下手にきこえるようにうたった。微妙に下手に、目立たないように。がっかりした音楽の先生の顔は何となく、今でも覚えている。

「ごめん。JJ。わたし、看護婦なのに、ごめんなさい」

 海の方を向いた窓辺のカウンター席では、西村(医者)がノートパソコンの青白い光に照らされて俯(うつむ)いている。

 おれは両手で自分の頬を叩いていた。叩かれたので、はっとした。

 結局南極、おれしかいないんだ。そういうこと。

 逃げ場はない。やるしかないんだ。

Suck My Kiss

Blood Sugar Sex Magik

 着信音。ユキノシタのスマホである。

 由希子が出た。「あ、はい。わたしSレディースクリニックの看護師です……あ、はい。柚木さんが……はい、はいはい。ゆきむらさん……はい、はいそうです」

 ぺらぺら話している。電話を切る。

「ゆきむらさん来るって」

 おれは立ち上がって、メス(刃物)を取った。

「だいじょうぶJJ」

「うん。いこう。指示してくれ」

「わかった」

本稿つづく

#連載小説
#愛が生まれた日

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