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レポートで遊ぶ。

試験とレポートが終わってほっとしている。普段なら鶏胸肉を選ぶところ、少し値段の張る豚トロを買ってしまうくらいには有頂天になっている。(結果、胃がもたれて気持ち悪い)

「文章を書くこと=思考すること」という図式が脳内に出来上がってから、書くことが楽しくてたまらない。縛りの強いレポートであれば、その枠内でいかに論を展開できるかを試すような感覚で楽しみ、制約の少ないレポートであれば、作品を創りあげるかのような情熱を注ぐ。

大学入学後に課されたレポートで楽しかったレポート(というより、もはやエッセイ)のテーマは二つ。

一つは、言語学の講義で課された

「私の好きな文字」

もう一方は、昨日仕上げた文化人類学の

「感想」

拍子抜けするくらいシンプルなタイトル。このレポートは(個人的に)大学で5本の指に入るくらい好きな教授の課題だった。彼の授業は基本的にただひたすら大量の文献を少しの解説と共に読み上げていくスタイルで進む。時々、マツコデラックスのような毒を吐くことをのぞいて学問分野に興味がなければ飽きてしまうだろう。

大学一年のとき、ウェーバーを扱った社会学の講義よりも、レヴィ=ストロースを扱った彼の講義に魅了されて以来「人類学」が私のベースの一つになっている。なぜ、私にとってその講義が魅力的だったか。その答えは講義の初めと終わりの語りにある。

彼が最初の講義で「"人間の文化や社会は進化するものである"これについてどう思う?」と問いかけ、歴史学や社会学とは異なる人類学の「文化」に対する見方を説明するまでもなくこの問いをぶったぎった。

「進化の反対は退化。君たちは退化する文化を見たことがあるか。つまり、退化も進化もない。そもそも何をもって進化とするか定義が曖昧」というような説明だった(気がする)。問いは裏返した方が解答への近道となると言った彼らしい説明だと思う。

最後の講義では、「ある意味、内容より"文体"や"言葉選び"に注目して欲しかった。どれだけリズムのある形で論文を書けるか」と語った。

そう、彼の講義ではあらゆる文献や論文、ときに彼自身の論文をまるで音楽を奏でるかのように、あるいは物語を紡ぐかのように編集していくのだ。人類学者レヴィ=ストロースもまた、その著作「神話理論」の中で章を「序曲」に始まり、「主題と変奏」、「二重逆転のカノン」などと名付けている。2人とも楽しみながら書いている様子が目に浮かぶ。

彼の講義の課題は二つ。一つは東北の「イタコ」に関する文献を読んで感じたこととその理由(論じるのではなくて「感じたこと」で良いのが教授らしい)。もう一つは、大量の聴講者のレポートを読むのは根気のいる作業だから息抜きをしたいという理由で加わった「感想」文。でも実は、「感想」とは名ばかりで何を書いても良いと指示されている。日記でも、俳句でも、とりあえず「感想」というタイトルさえ付いていればなんでも好きなことを書いてと。ある意味とんでもなく自由。無難に授業の感想が書かれたものをたくさん読んでも私は面白くないから、むしろ好きなことを書いて欲しいとのことだった。

A4用紙一枚に好きなことを語ることの方がむしろ大抵のレポートより難しい。noteでも、好きな小説家の「村田沙耶香」や「レヴィ=ストロース」ほどすきであるがゆえに整理することが難しい(整理しようと試みていないだけなのだけれど)。他の試験対策そっちのけでワクワクしながら書いた(たぶん人権論の試験対策をすべきだった)。

一見無機質なものに思える「学問」の世界にも、美しい「文体」と論理的な「文章」は両立するのだろう。そんな文章を書ける経験と技量を卒論までに少しでも身につけたい。

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